懐かしの通学路をたどってみよう!と、同窓会役員の高久篤史(52回生)がJR南四日市駅へ。中高6年間通い続けた学校までの道のりを久しぶりに歩きました。ご同行いただいたのは恩師である前田義信先生と、昭和30年代から学校近くにお住まいの用務員・中野清子さん。昔の様子なども伺いながらの楽しいウォーキングとなりました。
高久篤史(52回生):よろしくお願いします。
前田先生(以下敬称略):ここへ来るとね、下校指導を思い出すわ。寺村先生といつも一緒でね。
高久:いらっしゃいました、いらっしゃいました(笑)。
前田:おったでしょう。皆さんををお迎えしとったんよ(笑)。
高久:朝と帰りと…。
前田:ここへ来ると寺村先生を思い出すなぁ。寺村先生ももう定年になって…。
中野さん(以下敬称略):この3月いっぱいでね。
前田:「自転車もっとちゃんと並べとけ」とか言って。
やや乱雑に駐められた自転車を見て「これ絶対指導入るよ(笑)」と前田先生。少子化の影響もあって駐められる自転車の台数も少なくなっているようで、問題になるほどひどい状況ではありませんでしたが、今よりずっと生徒数が多かった当時は、あたりにびっしり自転車が駐められ、今以上に駐輪マナーが重要でした。
高久:道にあふれるくらいありましたよね。
前田:もっと多かった。
高久:あそこ(駅前ロータリーの北側)の自転車置き場って昔からありましたっけ? あれ、後からですよね?
中野:後からやね。あんなん無かった。
自動車が所狭しと並べられた駅前ロータリーは昔とあまり変わらない。
高久:でもこのへんの風景はあんまり変わってないですね。
中野:そこの道(県道629号)に出るところまではあんまり変わってないね。
高久:この、草の刈ってない感じとか(笑)。
中野:このへんの景色自体はずっと昔からあんまり変わっとらんと思う。このへんの家ははよからあるから。その前は田んぼやったけど。
広場から駅前の道に出たところで、踏切が鳴り始めた。
中野:ほら、電車来た。
高久:今から来る電車は…。
前田:イセテツ?
高久:どうでしょう。
中野:どっちが来るかね〜。
海星で南四日市駅を利用するのは、関西本線を利用して亀山方面からやってくる生徒と伊勢線(伊勢鉄道)を利用して河芸・稲生・神戸方面からやって来る生徒が主。伊勢線は1987年から第3セクターの伊勢鉄道が主に運営しており、海星では「イセテツ」と呼ばれ親しまれている。
前田:あのね、今年イセテツに就職したの、卒業生が。ずっとね電車の運転手になりたくって。もう10年くらい前に卒業して別の職業に就いてたんやけど、今年採用の枠があって、試験受けて受かったって。ちょうど1月くらい前に学校へ遊びに来てくれて、報告してくれて。
高久:へえ。
中野:そういう子もいるんやね。
前田:いるの。願えば叶う。
1両のワンマン車両が踏切を過ぎてやって来た。
中野:伊勢鉄道だ。
高久:僕がいるときにあの形(イセV形)に新しくなりました。その前はもうちょっと古い形でしたね。
中野:私は伊勢鉄道はあんまり知らんけども。
前田:俺は雪降ったとき通勤に使うの。(前田先生のお住まいは津市)
話ながら歩いているうちに、踏切の前に出た。大通りは県道629号。昔も今も交通量は多い。
中野:ここまではあんまり変わっとらへんけど、ここまで出ると、ここにこのタイキ(パチンコ店)ができてたり…。
高久:タイキの前は何でした?
中野:東亜紡かな。
高久:ああ、東亜紡ですか。僕がいた頃は道沿いに壁がずーっと。壁しかなかったんです。
中野:そうそうそう。そんなイメージだった。
車の列が途切れるのを見計らって、道を渡る。そのあたりは昔あった東亜紡時代の壁が無くなっており、目の前にはパチンコ店の駐車場が広がっている。
中野:今のパワーシティ(正確にはイオンタウン四日市泊)も東亜紡の跡で、むこうからこっちまであって。今は道(海星東側の市道)がその真ん中を通ってるけど。
高久:その後すぐにタイキができました?
中野:タイキができたのいつだっけ。もうけっこう古いよね。
前田:古いって言ったって…。
高久:10年以内やと思いますよ。僕が卒業してからここにゲームセンターができて。
県道からY字に分かれた市道を東に向かって歩きます。パチンコ店の道を挟んだ反対側には、味神館(ラーメン店)、ミニストップ、西松屋、スギ薬局が並んでいます。
前田:ここ何だったの?このへんって。昔ラーメン屋なんて無かった。何やったっけ?
高久:何だったかな。
中野:ここらへんはずーっと何もあらへん。
前田:そう何も無かったイメージ。できたの最近だよ。
中野:「最近」ったって…
前田:5、6年か10年くらい
中野:そんなに経ってない。もっと後やに。
前田:西松屋は?
中野:西松屋は特にまだ新しいね。このスギ薬局は知らん。今日まで知らんだわ。
高久:今日まで知らなかったんですか?
中野:今初めて知った。あんまりこっちには来やんからね。
高久:ごく最近なんですね。
中野:ほんと最近やに。
高久:僕はあそこにラーメン屋さんができたことぐらいは覚えてます。今とは違うラーメン屋でしたけど、格安の。
前田:そうそうそう。
中野:このラーメン屋さんはまだ新しいもんな。
高久:そのくらいまでしか分かんないですね。西松屋とかも全然無かったと思うんで。
パチンコ店の駐車場が途切れると、そこからは昔から残る壁が続く。大人の背丈よりやや高い、コンクリートの壁である。
中野:この壁がそうやん
高久:そう、この壁がずーっとありましたね。
中野:ここはずーっと東亜紡やったから。
前田:この歩道は昔からこんなに広かったかな。
中野:昔はもっと狭かった。こっち半分埋めたでこんだけんあるんやろ。
中野さんが指で示されたのは、広い歩道の車道側半分。言われてみれば、歩道は車道側半分がコンクリート製、壁側半分がアスファルト製で2色に分かれている。
前田:そう、昔はドブ!ドブ川やったよね。
中野:ドブ川やんか。あそこまではまだあるやろ。昔はここも半分の幅やったと思うに 。狭かったもん、この道。
高久:全部フタが開いてたってことですか。僕らの頃はもうこの状態やったんで。
中野:開いとったね こうやなかったと思う。
しばらく行くと,その歩道が半分の幅になり,目の前に水路が現れる。話題の「ドブ川」である。ここまでの部分がフタされて暗渠になっていたのだ。
中野:こんな川がずーっと続いてた。
前田:それをフタして…
高久:でも,こっちはずっとフタをせずに…。
中野:あっちは川が歩道と車道の間やったでフタしたんやと思うよ。
前田:30年くらい前はどうやったかな。
中野:30年前はまだ開いとったわさ。
再び道がY字に分かれる。Y字交差点の奥に山九プラントテクノの真新しい事業所が見える。
中野:山九(プラントテクノ株式会社中部支店)さんがここへ来たのも最近。まだ新しいよ。
前田:そうなん?
高久:何があったか…
中野:消えると分からんね。
高久:記憶が書き換えられてしまって。
前田:記憶が上書きされちゃうね。
自転車に乗った在校生が通りかかる。
中野:海星の子やんか。
在校生:何してるんすか?
前田:そのうちわかるよ(笑)。
中野:はははは。
前田:このホワイトベアー(喫茶店)は昔からあるよね。
高久:ありますね。
前田:カーマができたのは10年くらい前?
中野:もっと前、もっと前。
前田:もっと前?
高久:そんなに前ですか?
中野:10年よりはもっと前と思う。
高久:パワーシティができてから後ですよね?
中野:できてから。
高久:僕がいた頃はまだカーマはできてなかったんで。
中野:パワーシティはさあ、うちのカラサンス館ができる時に,土地を買う買わんって話があったんやけど、買わなんだんやん。
前田:なんかそんな話、聞いたことあるわ。
中野:だけど、あの東亜紡の土地の南の方、「百均」のほう、あっち側をずーっと駐車場になっとるむこうの方まで全部まとめて買えって言われて、よう買わなんだんやん。半分なら買えたんやけど、全部買えって言われて。カラサンス館ができてもう20年になるもんね。
前田:あれ、もうそんなになる?
高久:僕が入学した頃はまだ新品同様で…
前田:ああ、そうだ。船越先生が館長さんで…
中野:一番最初の館長が船越先生で…
高久:こわーい館長で(笑)。
興味深い裏話を聞いているうちに学校裏の道へ出た。道はパワーシティとカーマホームセンターを隔てている。もともとは両側とも東亜紡の敷地だったらしい。後日調べてみたところ、この道の東側は、松下電工(現パナソニック)とタイキに売却されたそうだ。カーマホームセンターはパナソニックから土地を借りて営業しているらしい。道のむこうにショッピングモールの看板が見える。
高久:もうパワーシティって言わないんですね。
前田:言わんよ、今はイオンタウン。
中野:イオンタウン四日市泊。
高久:今はもう無いですけど、昔ゲームセンターがここにあって。うちだけじゃなくて、四日市工業さんの生徒とかも来てて。
中野:今の家具屋のとこな。服部家具になっとるとこ。
狭い歩道を少し歩いて,生け垣の切れ目からイオンタウンの敷地に入る。
高久:ここから入ってましたね。ここからパワーシティの中を抜けて。
中野:この子らがおった頃はさ、ここにちゃんと道があって抜けれたの。今はここ車は通行止めになっとるけど。
高久:車もここ抜けれたんですよね、はじめは。あの真ん中の出入り口はなかったですよね。森の横の出入り口。
中野:そうそうそう。で、あそこに交番ができたでしょ。
高久:あ、そうなんですか。
中野:日永のカヨーのところに交番があったでしょ。あれがここへ来たの。あのトイレの向こうに。
高久:そうなんやー。どんだけ治安悪いんやってことですね(笑)。まさか海星の生徒が悪いからとかいうことじゃないでしょうね(笑)。
中野:ここ24時間営業やでやろ。カヨーは夜閉まるから。
高久:なるほど。パワーシティができる前はどんな感じでした?
前田:巨大迷路(笑)。
中野:いっぺんあったなぁ、そこらへんに。
高久:アトラクションですか?
前田:「なんでこんなものがあるの」って感じだったもん。
高久:行きました?
前田:行ってない。
中野:行ってない。見たことはあるけど行っとらん。ちょこっとできとっただけやん、あれは、ね。
前田:2、3年くらい?
そんなことを話しながらパワーシティの敷地内を歩いていく。小さなテナントは入れ替わっているところもあるが、マックスバリュやトイザらスなど核となる大型店はオープン当時と変わっていない。駐車場の中央部には小さな森が残されている。東亜紡時代から残されているのだろう。その南側に真新しい建物が見える。
中野:あれが交番。
前田:交番は嬉しいよ、ここへ来てくれて。入試の時、警備の依頼に行くのが楽になった。
高久:僕らの頃はなかったですよね。
前田:無い無い。
中野:まだここ3年か4年くらいのこと。常駐だからね、小さいパトカーでよく回ってみえるよ。
高久:巨大迷路の前はここ全部東亜紡でしたか?
中野・前田:東亜紡。
高久:ここ、まさにこの場所(マックスバリュ付近)には何があったんですか。
中野:ここは工場。で向こう側、うちの塀の手前が女子寮。
高久:東亜紡ができる前ってどうだったんですか?
中野:東亜紡なんて戦後すぐからやない?
高久:じゃあ学校ができるより前からですね。
中野:前から、前から。
「海星」の前身である「桑名英学塾」が作られたのが昭和20年。翌年に「民生学園」となり、昭和22年に現在の場所に移転して「海星学園」に改称した。昭和25年からの「南山第2高校」時代を経て、昭和30年エスコラピオス会が継承して「エスコラピオス学園海星高校」となった。
中野:私は昭和35年に15歳で土岐津の中学校を出て鐘紡に入ったんよ。
高久:鐘紡はどこにあったんですか。
中野:今、四日市工業(高校)のあるところ。
高久:学校を出て就職でこっちへみえたんですか。
中野:そうそう。伊勢湾台風の直後で、復興の最中でね。
前田:その頃こっち来たの?
中野:伊勢湾台風が昭和34年の9月でしょ? 35年の3月に卒業して、25日に関西線で来て…。
前田:中野さん、昭和35年に来たんや。
中野:うん。
高久:学校はその前からあったってことですね?
中野:あった、あった。
高久:その時には既に東亜紡はあったんですね?
中野:あったあった。
調べてみたところ、東亜紡が泊工場を開設したのは昭和21年。海星が四日市にやってくる直前に操業を開始したのであった。
高久:学校の場所はもともと何やったんですかね。
前田:何もない原っぱと聞いたよ、俺。
中野:原っぱのね、もうすごい湿地帯みたいなところやったって。堤さん(中野さんと長く一緒に用務員をと務められた堤みきゑさん)達はよう言いよった「泥田みたいな、沼みたいなもんやった」って。
高久:土地的にはあんまりよくなかったんですね。
中野:あんまりよくないとこやったんやね。
高久:その頃が、このあたりが開発されはじめた頃やったってことですかね。東亜紡ができたのも学校ができたのも「泥田」やったところを開発しはじめた頃やったんですね。
前田:そうそうそう。それくらいじゃない?コンビナートができたのも。
中野:コンビナートがここらにできたのは何年頃だろう。私らが来たときにできるかできやんかくらいか…。
前田:その頃急激に変貌しだしたんだな。
長きにわたって成長を続けるコンビナートだが、最も古い塩浜地区が操業を開始したのが昭和33年だった。
高久:中野さんが海星に就職したのは何年です?
中野:海星就職は58年。10月25日に来た。私が来てすぐに、この人がハワイから帰ってきて「土産置かして」って部屋へ来た。
前田:11月の6日にね、結婚してね。
中野:私が就職して、あれよあれよと言っとるうちに新婚旅行から帰ってきて「置かして」ってみんなに配る土産を持ってきた。それからしばらくして「お達者クラブ」ができてさ(笑)。
前田:そう。昔は職員室にコーヒー飲むとかそんな雰囲気なかったんよ。
中野:職員室が私らの部屋(用務員室)のちょっと向こうにあって。お御堂の上。2階の購買のとなり。あそこが職員室だったの。あそこではお茶しか飲めなんだの。コーヒーなんて…。
前田:だからさ、入ったばっかの俺とか細田なんかが、コーヒー飲みに湯沸かし室へ行って休憩してたの。それが「お達者クラブ」(笑)。
高久:へえ(笑)。
四日市のはずれの「泥田」に学校が建てられた創立当時の様子、経済成長とともに変貌していったであろう四日市の様子、前田先生や中野さんが「新人」だった頃の様子。そんなことを想像しているうちに、イオンタウンの敷地を出た。
高久:校舎はあれ、今コの字型になってるじゃないですか。あれ、はじめっからコの字型やったんですか。それとも増築して?
前田・中野:そうそうそう。増築して。
中野:あれは、一番初めのリベロ神父さんの構想なん。エスコラピオスのEの字を書きたかったん。でもちゃんとしたEの字にすると今の職員室のところがグラウンドまで行っちゃうわけ。それで、真ん中がちょっと短いあんな形になっちゃったんだって。
高久:へぇ。
中野:事務所の前のロビーのところに模型が作って置いてあるわ。
高久:はいはい、ありますね。
中野:その模型が、完成予想図だったらしいですよ。
高久:中学校の校舎が後から増設されたって聞きましたけど。
中野:南の校舎から事務所のところまでが最初。で、事務所の前の階段から保健室と家庭科室のあるあたりが次に建って。で、中学校のところが建って。あのあたりはプールやったんやんかね、昔は。私はその頃のことは知らんけど。
前田:カラサンス館のあたりは昔はシイの木がいっぱいあって。
中野:あそこに3本か4本あった椎の木は野球場の方に植え替えたね。
宮脇書店とスポーツオーソリティの間の細い通路からイオンタウンを出た後は、住宅地を抜けていく。
高久:ちょっと話戻していいですか?ここももともと宅地とちゃいますよね?
中野:違う。ここも東亜紡の土地やった。
高久:やっぱりそうなんですね。じゃあここが東亜紡やった頃、通学路はどこを通ってたんですか?
中野:この細道(国道1号線から分かれるイオンタウン西側の道)は通れた。私らはこの細い道を「裏道」って言いよったわ。あそこに墓があるから、昔からこの道は通れとったはず。
高久:なるほど。ここにパワーシティができたんで、今はその間が抜けられるけど、パワーシティができる前は壁沿いの道をどーんと国道まで出て…。
中野:それからこの細い道へ通ってきとったと思う。
前田:そうだそうだ、絶対そうだ。
中野:結局、追分のところも道が広くなってるやん。道ができるときに立ち退きになる家がようけあって、それでこっちへ移った人もおるんや。
前田:そうかぁ。なんか話がつながるなぁそれは。あ、そうだ。あそこにけっこうな資料館があるんやに。立派な資料館。
前田先生が指差したのは国道1号線にかかる歩道橋のほう。旧東海道との分岐のあたりだった。
中野:日永の資料館ってさ、あの歩道橋の下。
前田:行ってみよ、行ってみよ。
そんなわけでちょっと寄り道をすることに。
中野:今日は開いとらんな。開いとるのは土日と…。
前田:今日は開いとらん?
中野:あそこ、昔うち(海星)へ掃除に来とったYさんの家やったんやわ。で、Yさんが亡くなって、借りたのか買い取ったのか知らんけど。けっこういろいろ置いてあるよ。
このあたりは古い家が多いでしょ、壊して新しく建て直すと、いっぱい出てくるやない。特に東海道の筋でしょ。だから本当に昔の古いものがあるんさ。けっこう入場者もおるんやて。
前田:けっこう充実してるらしいんだよ、あれ。
高久:わぁ。
中野:「日永郷土資料館」って書いてあるでしょ。やっぱ閉まっとるわ。
高久:曜日限定なんですね。
前田:中身は充実しとるらしいよ。
高久:これ、海星の美術部が描いてるんやないですか。
前田:ほんとだ。知らんかった。
高久:描いてること知らんかったって聞いたら鷺坂先生キレると思いますよ(笑)。
前田:ははは。
通学路に戻って「植木屋」の前に通じる道に入った。ここも道沿いの側溝が暗渠化されて道幅が広がっている。
中野:ここらへんの家は前からある。
高久:ものすごい懐かしいですね。
前田:ここふさいだだけでずいぶん違うなぁ。
高久:ずっと溝でしたよね。でも、このあたりの家は全く変わらないですね。ちょうどこの家の前にちっちゃい橋があって。
中野:この側溝を渡るのにね。
前田:図書館にここの風景の絵があるよね。
高久:ありましたね。ここも昔は舗装されてなかったんでしょうね。
中野:砂利やったやろね。
高久:この防火水槽、僕通ってたときから気になってたんですけど、かなり古いですよね。
前田:でも生きてるやろね。
前田:ここは酒屋さんだったよね。
高久:そうですね。酒屋さんでしたね。向こうから見ると酒屋さんでした。
前田:そこの菜園なんて、昔あったっけ。
高久:畑はありましたよ。
中野:昔からやんか。これが大黒屋の土地やもん。
高久:もともとここらは全部畑ですか。今家が建ってるところも。
中野:そうそうそう。
高久:へえ。
中野:これ(建築中の建物)、アパートよ、アパート。4軒だって。だから事務所のAさんやらBさんに「ここ入ったらええのに。遠くから通わんでも」って言うとったんや(笑)。
そのアパートの向こうに追分公民館が見える。赤茶色の壁にはなぜか丸い掛け時計が。
高久:僕が通ってる時はここからあの時計を見ていつも遅刻するかしないか確認をしてたんですよね。あれ今でもあるんですね、あの時計。
中野:あるよ。
高久:そこの駄菓子屋さん、植木屋さんは健在ですか?
前田:店は無いよ。
高久:もう無いんですか?
前田:店は無いよ。店はもうずいぶん前になくなって。
角を曲がって植木屋の前。店の建物は残っているがシャッターが閉まっている。
高久:もう閉めてるんですね。
中野:ここ店やっとる時はまだおった?
高久:いましたよ。
中野:そうやな、まだそんなに経っとらんか。
高久:僕が卒業する時はまだまだ全然。あのおばあちゃんが…。まだご健在ですか?
前田・中野:おばあちゃんは健在。
植木屋の隣は高いネットで囲まれたバスケットボールのコートになっていた。奥にはしゃれた鉄筋コンクリート造りの建物が見えている。気づいた生徒らが「こんにちは」と声をかけてくれる。
高久:こんなんできたんですね。
中野:サレジオ会のな、宿舎と。
高久:ここって前は何でしたっけ?
中野:ここ?ここはねぇ、木が植わっとったん、いろいろ。いっぱい木が植わっとった。ビワがあったりミカンの木があったり、なりものの木があったりした。
前田:これ(修道院)は古いよな。
中野:これはもっと前からやでね。エスコラピオス会のものやで。
高久:ありましたね。
中野:だけどもう中はやり変えてあるから。みんな変わってるよ。
高久:このあたりの風景はあんまり…。
中野:あんまり変わらないでしょ。ただ、校舎に耐震のアレがついただけで。
前田:エレベーターも付いたよ。
高久:エレベーター付いたんですか?
中野:エレベーター付いた。これ、真ん中にエレベーター。
高久:ええーっ(笑)。 これ、いつできたんですか?
中野:あんたらが知らんっちゅうことはまだ10年にならんか。
前田:60周年の時の記念事業かな。
中野:そのぐらいか、ほっと。10年くらい前か。
高久:卒業してちょっと後くらいですね。
中野:あれのおかげですっごい楽になった。ものすごく楽になったよ。
高久:そうかぁ、エレベーターができたのか…。
中野:乗っといで、一番上まで(笑)。行って下りてきたらええんやで。
高久:4階っていうと、音楽室の前までですか。
中野:そう、音楽室の前まで。
高久:音楽室の前って、他に何もありませんでしたよね。
中野:そう。何にもあらへん。屋上への出口だけ。
高久:海星祭で「屋上喫茶」したときのことを思い出しますわ。
中野:あんたらか!ここでやったの(笑)。
高久:そうです。その節はお世話になりました(笑)。いよいよゴールですね。ありがとうございました。カラサンス像の前で記念撮影させてください。ありがとうございました。