恩師をたずねて

 仰げば尊し我が師の恩。引退された恩師を訪ねて近況をうかがうこの企画。

今回お邪魔したのは、40代で教員となり、校長まで務められた田中實乘先生です。

 現役時代と変わらぬ柔和で穏やかな笑顔で迎えてくださった實乘先生。今は奥様とお2人で暮らしておられます。
 奥様に「ここでゆっくり話を聞いたってください。」と通されたのは、居住スペースに隣接して、さまざまな英語教材が取り揃えられたお部屋。ここは、かつて英語教師だった奥様が退職後、子ども向けに開いておられた英会話教室だそうです。
 「實乘」というお名前は、明治30年生まれのお父様が付けられました。
「字画が良かったんやろうね。“實”だけでもええのにね。『ジツジョウ君は、お寺の息子かね』と担任に間違われたよ。」

田中實乘先生 企業戦士だった20代の思い出や、校長時代のエピソードなど、貴重なお話をたくさん聞かせていただきました。

 そんな實乗先生ですが、じつはカトリックのクリスチャン。お姉様が桑名教会で洗礼を受けたのをきっかけに、ご両親や、当時中学生だった實乘先生も受洗されました。
 ちなみにお姉様はその後、教会の縁で、当時としては大変珍しかったアメリカへの留学も経験されたそう。国際感覚豊かなご家族と、キリスト教が自然と生活の中に存在していたことも、海星の教員へと繋がる伏線のひとつだったかもしれません。ちなみに、お父様も社会科の教員だったそうですが、初めての職業は教員ではありませんでした。
「私にも、教員になってほしかったみたいやけど、どっちかというと技術者のほうに興味があったからね。」
 時代は高度経済成長期の真っ只中。設計という仕事に強い憧れを感じていた實乘先生は、生まれ育った桑名を離れ、立命館大学理工学部に進学。卒業後、名古屋の大手メーカー、大同特殊鋼へ就職され、夢だった技術者としての人生をスタートさせます。主な仕事は製鉄の機械設計でした。
 入社した頃、機械はまだアナログ制御の時代。高温の炉での作業は、夏場にはとてもできません。コンピューター制御へと移ってゆく変化の時代に身を置き、作業工程を自動化する機械の開発などを手掛けられました。
「大きな現場ばかり担当しとったから、とにかく出張が多くてね。残業もあって、家にはほとんどおらんかった。子どもが5人もおったし、父親として、これで良いのかと。もっと家族との時間を持てる仕事をしたいと思って。」
 会社には引き留められましたが、10年目に退職し、ご親族が経営されている幼稚園で事務の仕事に就かれました。
「昭和50年代頃から、私立の幼稚園や保育園の学校法人化を推進する政策が始まってね。申請とかの手続きを、やっとったわけ。ときには幼稚園バスの運転手もやったよ。」
 幼稚園の仕事に携わりながら、實乘先生は改めて大学にも通い始めました。
「機械設計をする中で目にする、いろんな公式の成り立ちを知りたいと思ってね。大学では数学は勉強してなかったから(笑)。」
 實乘先生が数学の教員免許を取られたのはこの時でした。しかし、意外にも当初は教員になることが目的ではありませんでした。純粋に「勉強してみたい」という動機の延長で数学の免許を取られたのだそう。真面目で行動的な性格が窺え、頭の下がる思いがしました。
 ちなみに、立命館大学時代に工業の教員免許は取得済みだったそうで、メーカーにお勤めの頃にもその免許を生かして、養成工(中学卒業後に入社した社員)の若者に向けた電気工学の授業を受け持たれていたといいます。“先生”の素地はもとより備わっていたのかもしれません。
 数学の免許を取得した後、「人手が足らんから助けてくれ」と高校時代の恩師に頼まれたのがきっかけで、桑名北高校で1年間、教鞭をとったのが教員生活の始まり。幼稚園の事務職員として10年働いた後、43歳の新人教員でした。1年後、桑名市の正和中学校へ赴任し、'92年、47歳のときに海星に就職することになります。正和中学校の生徒の進路相談で、海星へ出向いたことがきっかけでした。当時、ご長男が海星に通われており、星援会長を務めておられた實乘先生のお人柄に惚れ込んだヘルマン校長から、直々にスカウトを持ち掛けられたのです。
「今、受け持っている子たちを途中で放り出すようなことはできんから、卒業まではやらせてくれとお願いして。」
 担任した生徒たちを送り出してから海星に移られました。

 若い読者の中には、“校長先生”として、校門でひとりひとりに声を掛ける、穏やかな笑顔が印象に残っている方も多いかと思います。しかしながら、この取材の前に、着任当時を知る同窓生から、ある伝説的なエピソードが寄せられていました。新任挨拶の場で、壇上から全校生徒を一喝したというのです。
「うっすら覚えてるわ(笑)。生徒たちが、えらいうるさかったもんで。一瞬で静かになったけどね。」
 全体集会のときなどに「みんなして怒られた」という経験は、世代によっては「海星あるある」かもしれませんが、着任したばかりの先生にいきなり怒られるというのは、かなりの衝撃だったに違いありません。そして、着任早々に躊躇うことなく全校生徒を叱ることができる實乘先生の胆力たるや、恐れ入るばかりです。
 当時の海星の印象については「随分さっぱりとした感じの学校」だったと振り返られます。
「何しろ男子校やから、生徒指導にしても、当たりが強いというか。生徒を殴るなんていうことは、当時としても公立中学校ではあまりなかったから、びっくりしたよ。」
 高校の進学クラスを担任することになりましたが、生徒数が今より格段に多かった時代。1クラスの人数は50人ほどでした。
「しかも、あの机と椅子やからね。スペースがなくて、机間巡視も大変やった(笑)。」
 30代後半以上の同窓生には馴染み深い“あの”机椅子。生徒も先生も、身動きを封じられていたようです。
 担任として「生徒のことをもっと知りたい」という思いから、気になる生徒には個別に連絡を取り、家庭訪問も積極的にされました。もちろん、学校として決められていたものではなく、「勝手にやっていた(笑)」ものでしたが、普段の生活の様子を見ることは、生徒との信頼関係構築やその後の指導の一助となったそうです。

懐かしの机椅子 懐かしの“机椅子”。 学習机の刷新をはじめ、エアコンやエレベーターの設置など、校長時代はハード面の整備にも尽力された。

 '98年には中等部へ異動し、54歳にして中学1年の担任、学年主任となりました。中学生を担任をするのは正和中学校時代以来のこと。担任団を組んだのは、前田義信先生と上田周平先生(41回生)。
「若い周平君が率先して動き、前田君は穏やかに、私は少し厳しめに生徒に接する。バランスのとれた、ええチームやったと思うよ。」
 学年主任だった實乘先生は、さまざまな新しい試みを取り入れられました。その1つが、中学生の職業体験。地域の飲食店や郵便局、自動車部品の工場などに受け入れをお願いし、生徒たちはそれぞれの職場で割り当てられた仕事に取り組みました。
「今はどこの中学でもやってることやけど、当時はこのあたりではまだ珍しかった。保護者のみなさんも協力的で、受け入れ先を紹介してくださってね。」
 中学での修学旅行先を、沖縄から北海道に変更したのも、實乘先生の発案でした。
「高校を担任したときに、引率で行った東北の印象が良くてね。北のほうも行かなあかんと思って。」
 カトリック校ならではの、トラピスト修道院見学も組み込みました。
 3年間担任した中学生は、
「みんな、とってもええ子やった。ちょっと苦労した子もおったけど、最後には仲良うなってね。」
 翌年には中等部長を任されることになりますが、
「本当は、中学で受け持った生徒たちと一緒に高校に上がりたかった。管理職なんてやりたくなかったんやけどね。」
 と、残念そうに振り返られます。

 そしてその翌年には、なんと校長に抜擢されることになります。諸般の事情により、管理職の先生が相次いで退任されたためでした。
「まさか私にお鉢が回ってくるとはね。」
 まさに青天の霹靂でしたが、それは在校生にとっても同様でした。教頭も経ずに校長になるなんて…。皆が不思議がったものでした。
「つまらん仕事やった。生徒たちのために授業をすることだけが楽しみやったのに。」
 と實乘先生は当時を振り返りますが、海星の“顔”として、6年間、その職責を全うされました。毎朝、校門に立ち、登校してくる生徒たちに声をかけ続けました。当初は反応のなかった生徒も、
「自然と向こうから挨拶してくるようになった。あれはやり続けて良かったね。」
 そんな實乘先生の姿に、他の先生方も感化され、1人、また1人と、ともに校門に立つ先生が増えていきました。職員室の雰囲気も、以前にも増して明るくなっていったそうです。
「とにかく、より良い学校にしたいという一心やった。」
 そして校長となってからも、授業は続けられました。理系クラスの通常授業に加え、“0限授業”や補講も担当されたそうです。
「むしろ自分で授業を入れとったからね。授業という楽しみがあったから、校長の仕事も続けられた。」
 一方で、5人のお子さんの保護者として、PTA役員を任され、教員になる前から学校現場へ出向く機会も多かった實乘先生。当時から、教育についてある思いを抱えていたといいます。
「夜、PTAの会議なんかで行くとさ、校長や教頭が残業してて。先生方に遠慮して、何でも管理職だけで責任を取ろうとして、仕事を抱え込んでいるような様子が目についたんよ。」
 それは、一般企業で働いておられたご自身の常識とはかけ離れたものでした。
「『もっと先生を使わなあかんやんか』って。じゃあ、自分が先生になって、教員の働き方を内部から変えたろかな、と。当初は考えてた。」
 そうは言いながら、結局は管理職になっても教壇に立ち続けた實乘先生。校長を退いた後も、理事長だったヘルマン神父を補佐するため、副理事長として海星に残りますが、なお授業は続けられました。

桑名市内のご自宅玄関前にて 現役時代と変わらぬ、穏やかな笑顔でお出迎えくださいました。桑名市内のご自宅玄関前にて。

 今年、80歳を迎えられますが、昨年度まで、桑名市教育委員会の要請を受けて、木曽岬中学校で非常勤講師として勤務されていました。
「この間、そこの校長から郵便が来てね。開けたら、生徒からの手紙が入ってて。『先生のおかげで志望校に合格できました』ってね。」
 そのほかにも、親戚やご近所から、人づてに家庭教師の依頼が舞い込むこともしばしばで、先生の教えを受けて数学の面白さに目覚め、医学部を目指すことを決めた子も。そしてその子は実際にこの春見事に医学部合格を勝ち取ったそうです。
「ボケ防止やと思ってやってるわ(笑)。」
 医学部入試レベルの数学の問題を解くのは、確かに究極の予防といえるかもしれません。
 また、身体を動かすことも大好きな實乘先生。正和中学校では顧問として陸上部を県大会へ導いた実績もあり、趣味の草野球は70歳まで続けられました。校長退任の翌年には、65歳にしてホノルルマラソンを完走したというから驚きです。国内のマラソン大会にも数々参加されており、景色を楽しみながら走るのも魅力の1つなのだそう。
 その健脚ぶりを印象づける逸話がもう1つ。副理事長時代に、急な飲み会が入ったことがありました。仕方なく学校に車を置いて、電車で帰った翌日、なんと桑名のご自宅から海星まで走って出勤されたそう。
「家から学校まで走るとね、ちょうどハーフマラソンの距離なんよ(笑)。」
 今でも、ウォーキングやジム通いが日課という實乘先生。
「ダイエットせなあかんから。」
 と謙遜されますが、体型も現役時代と全く変わっていないように見受けられます。そして、現在に至るまで理事として、海星にも関わっておられます。今の海星への想いを聞くと、
「私が、あんまり出しゃばるわけにもいかんのやけど・・・。」
 と前置きした上で、
「もっと、伸びなあかん。」
 と、エールを送られました。
「授業にしても、公立は時間的な制約があるけど、私立は生徒のやる気に応えて、どんどん教えることができる。伸ばしたいと思う子を集めて授業をすることもできる。だから、先生たちもそういう熱い思いを持って接してほしい。私が海星で教えた子たちも、補講や0限授業にも頑張ってついてきてくれた。みんな伸びてくれたから、嬉しかったね。」
 厳しさのなかにも、生徒への愛情と熱意にあふれていた實乘先生。昨年、家庭教師をして大学へ送り出した子からは「20歳になったら、絶対飲みましょうね!」と約束されているのだそう。
「あと2年、生きとらなあかんのか、って。」
 その笑顔は、毎朝校門に立って挨拶されていた“校長先生”のままでした。

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