恩師をたずねて

仰げば尊し我が師の恩。引退された恩師を訪ねて近況をうかがう好評企画の第12弾!

  コロナ禍を受けて3年ぶりとなる今回お目にかかったのは、学園の「マドンナ」田中やよひ先生です。
マスク越しでもよく通るお声でした。 マスク越しでもよく通るお声でした。

 6月某日。待ち合わせ場所は津市内の老舗喫茶店。先生のご自宅にお邪魔するのがこの企画の慣例ですが、今回は先生のご要望に添ってお住まい近くのお店でお話をうかがうことになりました。
 梅雨入り前にも関わらず、外は夏を思わせる強い日差しでしたので、やや薄暗い店内はホッとする空間でした。窓やドアが開け放たれていたのは、換気に配慮してのことでしょう。
 昔と変わらず背筋のピンと伸びた田中やよひ先生(在職一九七一∼二〇一二)は白地に花柄のパーカー姿でした。意外だったのはパンツ姿だったこと。やよひ先生といえばスカート、それも丈の短いスカート姿の印象が強かったからです。
「そう、ミニスカミニスカ。ずっとミニスカ。」
 聞けば、ジャージ以外でパンツを買ったのは退職後しばらく経ってからのことで、それまではプライベートでもずっとスカートを履いておられたのだそう。若い頃は手鏡を使って悪戯を働く不届きな生徒もいたそうですが、意に介さずスカートを履き続けたそうです。
「よく脚の筋肉を褒められた」そうですが、陸上の短距離選手だった中学時代から鍛えておられたことだけでなく、車を運転されず歩く機会が多いライフスタイルであることも影響しているのでしょう。

 やよひ先生は今回の取材のために、自筆のノートを用意しておいてくださいました。伝えたいことを話し忘れないようにという思いからでしょう。律儀なお人柄を改めて感じました。「ヘタになった」と謙遜される文字も、黒板に書かれていたものと変わらない、一目でやよひ先生のものと分かる力強い文字でした。
 股関節の手術をしてから毎週リハビリに通っておられるとのことですが、お元気なご様子は昔とちっとも変わりません。ただ、視力に関しては若い頃から良くないのだそうで、なんと中学時代からずっとコンタクトレンズを使っておられるとのこと。'60年代のことですから日本ではまだ出回り始めたばかりだったと思います。

 やよひ先生は'47年に松阪市でお生まれになりました。活発な女の子で、小さい頃から走るのが速かったそうです。
 ある日、買ってもらったばかりのローラースケートで遊んでいると、ガキ大将に貸すよう迫られました。拒んだやよひ先生は殴られましたが、ローラースケートを振り上げて反撃。ガキ大将は額から流血したそうです。その晩、お母さんに連れられてお詫びに行ったそうですが、いくら促されてもやよひ先生は頑として頭を下げなかったそうです。
筋の通らないことが許せなかったんですね 中学では「靴さえあればいいから」と陸上部に入りましたが、やはり本当の理由は活動的な性格にあったのだろうと思います。「韋駄天走り」と称された俊足を生かして短距離選手として活躍したそうです。
 映画好きだったお父様は、小さい頃からよく映画館に連れていってくれたそうです。
「きれいな女優さんの出ている映画が好きだった」というお父様。観る映画はもっぱらマリリン・モンローやブリジット・バルドーなどが出演する洋画でした。
「お母さんのおっぱいはどうしてそんなの小さいの?」映画館から帰ったある日、やよひ先生はお母様にそう尋ねたそうです。
 お母様とは何でも話せましたが、「壁があった気がする」というお父様とはあまり話をしなかったと悔やんでおられます。「親子なんだからいろいろ話せば良かったと思うけれど…。もっといっぱい聞くことあったのにね…。」
「昭和の父」は今と違って不器用でした。
 そんなお父様の影響で映画好きになったやよひ先生、高校時代は洋画ばかり年に百本以上の作品を見ていたといいます。当時はハリウッド映画だけでなくイタリア映画やフランス映画などヨーロッパの作品も盛んに上映されていました。「二本立て」が一般的だった当時のこととはいえ、それでも年に五十回以上は映画館に足を運んでいたということになります。
「お母さんの財布からお金をくすねて観に行っていた」そうですが、お母様もきっと気づかぬフリをしてくださったのでしょう。映画館の常連だったたので、スタッフの方が「タダで入れてくれたこともある」そうです。
 お気に入りは「007」シリーズ。ほぼ全作、映画館でご覧になったそうですが、断然、初代ボンド役のショーン・コネリーがベストだとおっしゃいます。

 松阪高校時代から、近所の子ども達に勉強を教えるアルバイトをし、「教えることが好き」だと自覚していたそうです。皇學館大学では教員免許を取得されましたが、卒業後は地元の某銀行に就職し、窓口業務に携わっておられたそうです。その頃マスターしたお札のさばき方は、後々プリントさばきに役立ったとおっしゃいます。たしかに器用な手さばきでプリントを扇状に広げられる様子は印象に残っています。しかし、1円の誤差も許されないような銀行の仕事は、豪快な気質のやよひ先生には窮屈だったようで、改めて教育の仕事を目指すことにされました。

 転職の相談に乗ってもらったのは、ご実家の近くにお住まいだった中学時代の恩師。女性ながら一七〇センチを超える大柄で、声も大きい国語の先生でした。まだ世の中が男性中心だった当時にも関わらず、職員室で男の先生と喧嘩腰で口論していた姿が印象的だったといいます。そんな恩師に敬意を抱いておられたからこそ、相談に乗ってもらったのでしょう。
「すぐに先生にしてやる」と請け合ってくださった先生が、電話を掛けてくださった相手は当時、海星の教頭をしておられた稲垣栄三先生。話はすぐに決まり面接を受けることになりました。面接官は校長だったリベロ神父様。ミニ丈だったかどうかは分かりませんが、白のワンピースで海星を訪れたそうです。他に数名の男性受験者もいましたが、合格したのはやよひ先生。面接は8月でしたが、中途退職した先生がおられたため急遽9月1日から勤務することとなりました。職員室の隅に席を与えられ、副担任としてキャリアをスタート。24歳の秋のことでした。

 新人のやよひ先生の指導官になったのは、泣く子も黙る体育科の中村晏弘先生でした。
「おかげで私は中村流。ちょっと乱暴な先生になりました(笑)。」親分肌だった中村先生はずいぶん可愛がってくださったそうです。4月からは新1年生の担任となりました。海星では女性初の担任でした。きっと学園の「マドンナ」だったことでしょう。

 やよひ先生の前にも女性教員はお一人おられましたし、事務室には複数の女性職員がおられましたが、当時の海星にはまだ女子トイレが無かったといいます。現在も職員用として使われている本館1階中央部のトイレが当時唯一の職員用トイレで男女共用。先に用を足している男性がトイレから出てくるのを柱の陰で待ち、空いたら入って素早く用を足す。そんな窮屈な状況が続いたそうです。
「そんなことしとったら病気になるぞ。」事務室のベテラン女性職員、秋葉米さんにはそう叱咤されたそうですが、だからといって、堂々と使う勇気は無かったとおっしゃいます。
「20代のうぶな私がおりました(笑)。」

 女子トイレと女子ロッカーが作られたのは、それから4年後。山口(青井)万里子先生と別府せい子先生のお二人が就職されたのがきっかけでした。

 若い頃は結婚も考え、お見合いも何度かされたそうですが、先生のお眼鏡に適う男性に巡り会うことはありませんでした。
「生意気ですけど、全部お断りしました。」パワフルなやよひ先生にとっては、どんな男性も物足りなく感じられたのではないでしょうか。
 そんなやよひ先生を勇気づけたのは、93歳で亡くなったお祖母様でした。戦時中、従軍看護婦だったお祖母様は、終戦後も赤十字病院の総婦長をしていたという方で、「女は結婚だけが全てじゃない」と常々話しておられたそうです。当時としては珍しいタイプの女性でした。

 就職以来ずっと松阪の実家から電車で通勤しておられましたが、'88年に津市内のマンションを購入。
「忘れもしない。カギをもらったのは昭和63年12月25日。」昭和最後のクリスマスでした。
 まとまった休みを取ることは難しく、引っ越したのは翌年の春休みだったといいます。その間に、昭和天皇が崩御。引っ越した時には「平成」の時代が始まっていました。

 通勤は退職までずっと近鉄電車でした。はじめは内部線で追分駅まで通っておられましたが、途中からは四日市駅発のバスを利用するようになり、後には塩浜駅からタクシーで通われるようになりました。帰りはいろいろな先生が塩浜駅まで送ってくださったそうで、とても感謝しておられました。

 60代の初め頃からは、弟さん夫婦と協力してご両親の介護をするため、週の何日かを松阪のご実家で過ごすようになり、「2拠点生活」を始めたそうです。 「やよひには悪いけど、結婚しなくて良かった。最後こんなに一緒に過ごせているもの。」再びやよひ先生と一緒に暮らすようになって、お母さんはそうおっしゃったそうです。

 30代の頃には海外研修に派遣されました。当時の海星には、先生方の見聞を広めるための海外研修制度があったのです。派遣先はそれぞれの先生の興味・関心に応じて決めることができましたので、やよひ先生は米国行きを検討されたそうです。冷戦の最中でしたが、当時の米国は消費文化の繁栄を謳歌していました。多くの日本人が憧れていましたし、やよひ先生はハリウッド映画好きでしたからそれは自然なことでした。

 しかし、実際にやよひ先生が訪れたのはイタリア、スイス、ドイツ、フランス、イギリスのヨーロッパ5か国。「世界史を教えているのだからヨーロッパを勉強してくるべきだ」という青木庸一先生のアドバイスを受けての判断でした。コロッセウム、マッターホルン、ケルン大聖堂、ベルサイユ宮殿、ロンドン塔…。まだまだ海外旅行が一般的でなかった時代です。刺激的な毎日だったそうで、テレビなどで現地の風景を見ると、今でも当時を懐かしく思い出されるそうで、青木先生にはとても感謝しているとおっしゃいます。

 米国への旅が後になって叶うのですから、人生は面白いものです。創立以来ずっと英語教育に力を入れてきた海星では、他に先駆けて生徒たちの海外研修プログラムをスタートさせました。当時の渡航先は主にアメリカ西海岸。やよひ先生はオレゴン、カリフォルニア、ワシントンの各州へ生徒たちを引率することになりました。

 海外研修の引率は、もちろん生徒たちのサポートが最大の任務ですが、実は先生方自身にとっても貴重な学びの機会となっています。
「外からの目で日本が見られるようになった。」とやよひ先生もおっしゃいます。例えばカリフォルニア州サンディエゴでのステイ先はフィリピン出身のご主人とメキシコ出身の奥さん、3人の子どもたちからなるご家庭で、米国社会の多様性をひしひしと実感されたそうです。
 そのカリフォルニアでは更に貴重な体験もできました。たまたま軍関係者だったホストの計らいで基地内の見学をさせてもらったそうで、その基地は映画「トップガン」のロケ地。トム・クルーズがバイクで走ったところを車で走ってくれたそうです。

田中やよひ先生(右)と藤田智博(48回生) 田中やよひ先生(右)と藤田智博(48回生)

 ハリウッド映画と言えば、もう1つ、貴重なお話をうかがいました。

 高校1年で参加するのが恒例だった志賀高原の学年合宿。あの合宿中に毎朝流された「起床時刻」を知らせる館内放送のことを覚えている卒業生も多いのではないでしょうか。そう「ロッキーのテーマ」。'81年に学年合宿が始まった時、起床の合図としてあの名曲を選んだのはやよひ先生だったのだそうです。眠い目をこすりながら起きる合宿の朝。起床のタイミングで「ロッキーのテーマ」。否が応でも気分が上がる絶妙な選曲ですよね。今の海星でも合宿の起床時に使われていたりするのでしょうか。今の生徒たちにはピンと来ないかもしれませんね(笑)。

 志賀高原の合宿には11回参加したというやよひ先生。11という数字は、そのまま、やよひ先生が担任した学年の数を表しています。高校3年間の持ち上がり担任を11回。おそらく海星史上最多の数です。当然、担任した生徒の数も海星史上最多ということのなります
 これはもちろん、やよひ先生が学級、学年を担任するに相応しい優れた教師であったからに他なりません。しかし、男子校だった海星が強い「男社会」だったために、女性であるやよひ先生に学年主任などの役職が与えられなかったことも一因だったと思われます。
 いずれにしても、そのおかげでたくさんの生徒がやよひ先生と出会えたわけですから、生徒にとってはありがたいことでした。中にはお父さんと息子さんの両方を担任したケースもあったそうです。

 やよひ先生のクラスに在籍したことのある卒業生はこんな言葉をきっと覚えていることでしょう。
「守ってください、決められたことは。協力してください、みんなの為に。努力してください、自分のために。」
 やよひ先生のクラスの小黒板にはいつもこの言葉が書かれていました。やよひ先生は曲がったことがお嫌いですので、ルールやマナーを守らないことや、自分勝手な行動を許すことはありませんでした。厳しく指導に当たられる姿を目にしたことのある卒業生も多いのではないでしょうか。
「なんせ中村流ですから(笑)」とやよひ先生。生徒たちから「武闘派」と恐れられた中村先生直伝の厳しさというわけです。
「今では考えられないでしょうが、叱る時はまず正座。彼らのほうが私より背が高いので。」確かに、一昔前まで、叱られる時に正座させられるのは、海星に限らず、当たり前のことでした。
 そういえば、「怖いやよひ先生」のエピソードとして、こんな伝説を耳にしたことがあります。
 むかしむかし、ある教室で、何をやらかしたのかクラス全員が叱られることがありました。激しく怒っていた担任のやよひ先生は生徒たちを廊下に出し、一列に正座させると、手にしていた出席簿で片っ端から頭をバシンバシンと叩いていったそうです。出席簿は、いつも教卓の上に置かれている、紐で綴じられたA3ほどのサイズの帳簿です。黒いコーティングが施された厚紙の表紙。結構な硬さです。おそらく1クラス50名近くほどの生徒がいた時代。その生徒たち全員の頭を叩き終わった時、出席簿はクタクタになっていたという…。
 今なら大問題になる事案でしょうが、当時は体罰なんて当たり前の時代でした。それにしても、あの硬い出席簿がクタクタになるなんて…。良い機会だと思い、勇気を出してやよひ先生に伝説の真偽を尋ねると…
「事実です。ありました。新しい出席簿を買いました(笑)。」はっきり覚えておられる様子でした。
 しかし、そんな「恐ろしい」伝説が有るにも関わらず、やよひ先生のことを嫌っている卒業生には会ったことがありません。確かに、厳しい指導でこっぴどく叱られた経験のある卒業生も多いのでしょうが、それもやよひ先生に愛情ゆえであることは伝わっていたでしょう。
とてもさっぱりした性格でいらっしゃるので、ネチネチと粘着質な「お説教」をしたりするようなことも無かったでしょう。そして誰に対しても誠実に、裏表無く接してこられたのだろうと思います。だからこそ、多くの卒業生が「お世話になった」と感じているのではないでしょうか。深い愛情を持って全人格的に生徒と関わるスタイルが「やよひ流」だったのでしょうが、それは「愛」を前提とした信頼で人間関係を築いていこうとする「カトリックの精神」とぴったり重なるものだったのだと思います。
「海星は私にぴったりの学校だった。」とやよひ先生ご自身もおっしゃいます。しかし、考えてみれば、そんな海星の校風を作ってきたのは、言うまでもなく海星で生徒たちと関わってこられた先生方であり、やよひ先生もそのお一人です。最も多くの生徒を受け持ってこられたやよひ先生が、今の海星の校風を作り上げてきた一大功績者であることは間違いないでしょう。

 やよひ先生は顧問を務めた陸上部、バスケットボール部、バドミントン部でも部員に寄り添って一緒に汗を流しておられました。
 バスケ部時代の思い出として話してくださったのは、部員達と学校に泊まった合宿のエピソードでした。みんなで出かけた銭湯で「お風呂が長すぎる」と部員に文句を言われたこと、グラウンドで花火に興じる部員たちに夏の星座の話を聞かせる市川敏郎先生(21回生)の「意外な」博識に感動したことなどを楽しそうに話してくださいました。ちなみに市川先生もやよひ先生の教え子でいらっしゃいます。
 バドミントン部では、「ラケットは最新・最高額だけど、腕は最低」とイジられたりもしたそうですが、部員たちと一緒に練習して腕を磨かれたそうです。夏の暑い日に、部員たちがパンツ一丁の半裸姿でグラウンドで水浴びをしていた様子を思い出し、
「共学の今となっては考えられないですよね」と笑っておられました。
 部員たちを下校させ、戸締まり、消灯をして体育館を出た夕暮れ。照明に照らされたグラウンドの真ん中で野球部の練習を見つめる湯浅和也先生(26回生)と挨拶を交わすと「疲れを忘れた」というやよひ先生。一緒に汗を流した部員たちも教え子なら、湯浅先生も教え子。海星で過ごすうちに、何百人もの「男の子」に恵まれた偉大な「お母さん」、本当の「マドンナ(聖母)」になっていたのかもしれません。

 海星を退職した後は、縁あって県内の某公立高校に1年間だけお勤めになりました。
「緊張して硬くなりました。」
 長い教員のキャリアが有っても女子生徒を相手に授業をしたのは初めてでした。相手が男の子であれ、女の子であれ、教師としてのやよひ先生の仕事ぶりに変わりはありませんでした。ただ、公立の学校には、海星との違い、特に教員同士の関係性や職員室の雰囲気の違いを実感したとおっしゃいます。公立学校の先生は数年ごとに異動があります。長くても5、6年もすれば他の学校へ転勤していきます。それに対して、海星の先生方には異動がありません。退職しない限り、同じ顔ぶれで仕事をし続けることになります。学校に対する帰属意識や、先生同士の関係の深さに違いが表れるのは当然でしょう。
「リベロ校長が常々おっしゃってました。『私たちは海星ファミリーです。家族です』って。」他の学校の教壇に立って、改めて海星の魅力を実感されたのだろうと思います。
「海星での心のキャッチボールが私の人生でした。海星の職員として働かせてもらったことに心から感謝しています。」
そんな思いで関わっていただけた私たち卒業生も、とても幸せであったと思います。田中やよひ先生、本当にありがとうございました!

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