夏本番を思わせるまぶしい陽差しの下、お邪魔したのは三重団地にある小津清貴先生(在職一九六六〜二〇〇四)のお宅です。神戸や横浜の洋館を思わせる下見板張りの白壁が美しいお住まい。奥様が手入れしておられるというたくさんのバラの花が、梅雨入りを間近に控えた潤いの中で鮮やかな色を見せていました。
約束の時刻より少し早く着いてしまったので、車中で時間を潰そうとしましたが、車の存在に気づいてくださったらしく、先生はすぐに家から出てきてくださいました。
久しぶりにお目にかかった印象は、昔と全然お変わりない様子。76歳になられるとのことでしたが、とても若々しく見えます。
「特製のブレンドやで合う合わんは分からんけど、適当にやって。」
通していただいた和室の机には褐色のガラス瓶が2本。先生オリジナルブレンドのアイスコーヒーと、濃いめの緑茶。色の着いた瓶をお使いなのは、日光を遮るためとのこと。先生が気配りの人であったことを改めて思い出します。
お茶の用意は先生が自らご用意くださったとのこと。
「今、相方さんはウォーキングのサークルで。月曜日はいつも昼まで2時間半くらいずーっと歩いとるもんで。忙しいの、あの方。僕は『サンデー毎日』だけどね。」
先生がジョーク連発の人であったことを改めて思い出します。
海星を退職されて15年。定年後1年間だけ講師を勤められた後、御子息(小津貴義先生)に後を託すような形で現場を去られました。
その1年後、縁あって四日市大学から招聘され、3年間、一般教養課程で教壇に立たれたそうです。
「日本文学について年代順に。万葉集をちょこっと出して『昔の恋愛はこうでしたよ、生活はこうでしたよ』みたいな話から始まって、源氏物語であったり、平家物語であったり...。海星も楽しかったけど、あの3年間も楽しかった。」
四日市大学で授業を持つことになったのは、先に理科の授業を持っていた伊藤仁先生のご紹介がきっかけだったそうです。
「大学から『文系の先生が欲しい』って言われた時に『適任がおるから、明日連れてくる』って。僕を呼んでくれて。
僕の家を知ってみえたので、大学の帰りに寄ってくれて、『バイトせえへん?』て。『バイト?今さら』って言ったら『いやいや、四日市大学でこんな話があるんで』って。それで行ったらめちゃくちゃ気に入ってもらえて。」
修士(大学院卒)の教員免許である「一級免許(現在の専修免許)」を持っていたことも大学には喜ばれたそうです。
もともと学士(大卒)の「二級免許(現在の一種免許)」しか持っておられなかった小津先生は、海星の教員として勤めながら、自主的に勉強を続け、2年をかけて「一級免許」を取得しておられました。
「東大前の赤門のところに修道院があるんですよ。そこに2年間、夏だけ泊めてもらって、夏期講習に通って単位取って。ふだんは通信教育でモジャモジャっとレポート書いて送って。」
海星の教員の仕事は「二級免許」があればこと足ります。それでも「一級免許」を取得しようと努力されたのは、ひとえに小津先生の向上心、向学心の高さによるものだったのでしょう。
週1コマの「日本文学概略」は人気の講義だったそうです。
「となりの教室が5、6人しかいないのに。僕のところには56人おったん。事務所でも『先生、一番人気です』とか言ってくれて。めっちゃ嬉しかった。」
講義の良し悪しが受講生の数に直結する大学の授業。小津先生の講義が人気の授業になるのはよく分かる気がします。
「良かったのは,自分でテキストを作れること。便箋にばーっと書くわけよ。表裏4枚くらい作って、それをコピーしてもらって。ルビ振ったりしてね。」
受講生の半数近くを外国人留学生が占める授業には、ご苦労も多かったでしょうが、「楽しかった」と振り返られます。
「難しい言葉とかもあるけど『みんな分からなくていい』って先に言ったん。日本に住んでる人間ですら分からないこともあるんだから。日本の文化とか生活とか、それから日本の四季の変化。これを分かってもらったら、じゅうぶん日本の良さが分かる、という話をして。
例えば雨が降ったら『今日は大変だった。バスが遅れたよ〜』とか言うじゃん。そしたら『来週は、今日は道にこんな花が咲いてたよ、とか教えてね』って。日本人は例えば花を見た時に、『あ、春が来たな』とか『夏が来たな』とか、そういう心の変化を素直に捉えることのできる民族やってことをね、伝えたかったわけ。」
「あるいは、古典とか小説とか文字どおり読むだけだったら面白くないけど、その世界にどっぷり浸かって、例えば十二単着たつもりで『トイレ行くん困るわ、どうしよう』
みたいに考えていくと、めちゃくちゃ面白いよって。そんな話をしたん。そしたら『途中から受けてもいいですか』とかっていうのが増えていってしまって。楽しかったね。」
「かわいい子多かったしね。ネパールから来てるある男の子はカタコトの日本語しか喋れんくてさ。『心配しなくていいよ、分からなかったら僕が大きな字で日本語で書いてあげるから』って言ったら、ずっと前の席で受けてくれてね。」
小津先生の講義が人気だったのは、内容だけでなく、そんな先生のお人柄によるところも大きかったのではないでしょうか。
「しかめっ面して向き合ってて『あの人いいね、楽しいね』っていう生活はないと思うのね。だったら場がほぐれて、柔らかに、お互いに飾らん言葉で話ができたらええなっていう思いがもともとあってね。」
あの柔和で温厚なパーソナリティは、単に生来の性格であるというだけでなく、そうした先生の思い、心がけによって培われたものだったのですね。
「もともと日本で生まれて、日本で育ってたら、もうちょっと『やんちゃ』っていうか、好き勝手やってたかもわからない。」
先生が日本生まれでないというお話は今回の取材で初めてうかがいました。
「僕は満州ってところで生まれたん。満州の一番奥ですぐ隣がロシア。黒竜江って川があるんです。そのすぐそばに孫呉っていう所があって、そこが出生地。昭和18年8月13日、お盆の生まれです。間もなく76歳。」
満州、現在の中国東北地方。当時の満州国政府は日本の傀儡で、事実上、満州は日本の植民地となっていました。
「父親はもともと伊勢の人間だけど、陸軍の主計伍長として満州にいて。母親も何の関係だったのか分からんけど、三笠宮殿下と一緒に満州に行ってて、そこで仲良くなって。だから僕はあちらで生まれた。」
終戦間際、満州にいた小津先生のご家族は激動の渦に巻き込まれました。
「ソ連が終戦の何日か前に入ってきて、『逃げろ〜』ていうんで母親だけ逃げてきた。女の格好してるとロシア兵に捕まって何されるか分からんからって坊主頭にして帰ってきた。僕は2歳ぐらい。
ソ連の戦車が列車をバンバン撃ってくる。電気を消して真っ暗ん中を走ってるんだけど、石炭で走るから火の粉が飛ぶんだって。ソ連軍はそれを目がけて撃ってくる。
そんなだから、子ども達は、殺されると可愛そうやからって全部むこうの人間に託して置いてこられた。その中で母がね、僕だけ連れて帰ってきてくれて。」
「ハルピンやら大連やら通って引き揚げ船で舞鶴に至るまでの話を母からいっぱい聞いたけど、僕自身の記憶は1つだけ。引き揚げ船がとにかく人がいっぱいで、真っ暗で、じめじめ暑い。
昔はクーラーが無いから、ひゅいって窓開けるとそこから風が入るくらいで。ぎゅうぎゅう詰めで真っ暗で蒸し暑いっていうので、『なんか嫌やなー』ってキョロキョロしとった。そこだけが小っちゃい頃の記憶としてあるだけでね。」
「食べるモンの無い時代やったから、子どもの食べるモンなんて無いじゃないですか。そこで船長が、子どもが僕しか乗っていなかったていうんで、『私のごはんだけど』ってお粥を作ってきてくれて、僕にくれたっていうの。これは母から聞いたんだけどね。」
当時たった2歳の小津先生。ご自身にはほとんど記憶が無いとのことですが、その体験が特異で強烈だったことは間違いありません。記憶という形で表面には出てこない、先生の心の無意識の部分に何らかの感慨が刻み込まれたのかもしれません。
「そんなだから『僕だけこんなことしとっていいのかしら』と思うこともある。何かのご縁でね、今がある。ありがたいこと。だから、伊勢の人間の言う『おかげさまで』という言葉が常に口に出る。」
「自分でも数奇な運命だなと思いながら、両親には感謝してたんだけども、何の親孝行もできなかった。御仏壇へ入ってから毎朝お線香立てて『なむなむ』」て言うとるだけではね、いけなかったんだけど。」
そうおっしゃる小津先生ですが、きっと親孝行な息子さんだったのだろうと思います。お母様は晩年、小津先生のお宅で暮らしておられました。
「母親は僕の目の前で亡くなったのね。前日往診してもらって、お金払いに行って帰ってきて『おばあちゃん、帰ってきたよ』て言うたら、ニコって笑ってスーッて。だから、それは何か僕とつながってるもんがあったんやなって思う。」
命をかけて息子を連れ帰り、育て上げた母、その生い立ちに感謝して母に寄り添った息子。言葉は要らない強い絆があったことは想像に難くありません。
満州に残ったお父さんは、後から遅れて帰国されたとのこと。
「父は抑留された。帰ってきた時,僕は6歳くらいやったかな。3年か4年遅れて帰ってきた。その頃、僕たちは伯父の家に居候しとったんだけど、そこへ汚い格好してリュック背負って帰ってきてさ。
『おい、キヨ』って言われて、『はい?』」って。分からへんからね。父ちゃんは居ないもんやと思ってるから。で『こっち来い』て言われて『はいっ』て言ってついていったら膝ヘボンと乗せられて『大きなったのぉ』って頭グシャグシャってやられて。『何なんやろ』って思った、最初はね。」
「床屋さんへ行くと『満州引き揚げの子』て言われて『お前はじゃがいもで育ってきた子やでのぉ』っていつも言われて。母に『じゃがいもで育ってきたん?』言ったら『むこうはジャガイモガ主食や』て。
軍の下で働いてた満人さん達は、朝弁当持っていって、植えられるところまでずーっとジャガイモ植えていって、弁当食べてまたずーっと帰ってきて1日が終わるていう。そういう人たちが軍の下におったんですって。」
もしかしたらジャガイモがお嫌いかもと思いきや、
「作ってますよ(笑)。」と小津先生。そりゃそうですね、2歳で引き揚げてこられたのですから。
「もともと日本で生まれ育ってたら、環境に甘えてもっと好き勝手やってたんじゃないかと思う。厳しい状況を知ってるから、貧しくてろくな食べ物が無くっても『食べるもんがあったらありがたい』と思える。そういう態度が自然と植え付けられとったんやと思う。」
戦中戦後の日本では、多くの子どもたちが同じように辛い思いをしていました。そういう環境の中で高い精神性を身につけられたのは、小津少年の感受性の豊かさによるところが大きかったのではないでしょうか。
そんな小津少年はどんなふうに毎日を送っておられたのでしょうか。
「伊勢に父親が帰ってきて、1、2年は伯父のところにいた。2部屋の借家を借りて、畳が無くて板の間に新聞紙敷いて、ゴザ敷いて。家にあるのは管球式のラジオだけ。
遊びといったら、竹の棒持って草を『えいっ』とか切ったり、バッタ取りとかトンボ取り、フナ釣りとかコマ回し。自分で遊びも工夫した。竹馬なんかも自分で作ってたね。」
炊事のための火熾しが小津少年の「仕事」だったそうです。
「今みたいにガスとかIHとか無いじゃない。コンロとかおくどさんでごはん炊くやろ。まず割り箸みたいなもんを作って七輪にくべて、消し炭を入れて火を熾す。うちには木がたくさんあった。
帰ってきた父親が材木屋になったからね。仕事師さんを使って、原木を山から切り出してきてっていう。」
小津先生も大学生時代は仕事に駆り出されることがあったそうです。
「バイクの免許取っとったんで、『おい、連れてけ』って休みの日なんかにしょっちゅう山へ駆り出された。で、材木を引っ張ってくる山の道を補修したり、丸太を担がされたり。」
しかし,お父さんはもともと材木を扱っていたわけではないそうです。
「満州へ行く前は、京都へ丁稚奉公に行ってて。室町仏光寺を上がったところで反物巻いとったん。だから算盤はできたんやろね。字もまあまあ綺麗やったし。」
「昔は兄弟が多いとどっかへ丁稚奉公に出てて、ある程度勉強してからそれぞれの職業へ就いていく、みたいなところがあったみたいよ。お線香のCMの、ああいう感じで行ってたんやと思う。で、そのうち戦争に巻き込まれてってことやったと思うんやけど。」
もとをたどれば、お祖父さんは材木を扱っておられたそうで...
「祖父が木挽(こびき)さんやったんな。昔は丸太から大きな板を作るのに、斜めに立てかけた丸太を大きなノコギリでギュッギュッって切っていた。
喋らんめっちゃ無口な人、頑なな人やったんです。ごはん時でも、うっかり肱でも付こうものならコツンとやられるっていう。料理もおじいちゃんは1品多かったし。」
若き日の小津先生はどんな学生時代を送っておられたのでしょうか。
「高校は京都やったんです。東山高校という、南禅寺と真如堂の間にある学校なんです。浄土宗知恩院派が創立した男子校です。男子校ってのはさっぱりしとったね。なんの煩わしさもなかった。」
海星OBではない小津先生。でも、高校時代を男子校で過ごしておられたのですね。
地元の伊勢でなく、遠く離れた京都へ進学することになったのは、ご両親の教育にかける思いが人一倍強かったせいでしょうか。1年目はお父様が丁稚奉公しておられた商家の離れへ下宿させてもらうことになりました。この時期が「人生で一番修業になった」と小津先生は振り返られます。
「高1で何もかも分からずに行ったし、親父さんがめっちゃくちゃ厳しい人やったし。」
「座敷で家族4人がごはん食べるんです。で、その続きの板間になってるとこに、女中さんと丁稚さんと僕とが正座して食べる。むこうはお魚がある。時としてすき焼きしてる。こっちは漬け物と味噌汁だけ。『これ美味いな』とか言ってるのがすぐそこに見えとる。においもボンボン来る。」
「で、1年でそこを出て、次に入れてもらったとこは、京大のそばの20人位の下宿やったん。そこは浪人ばっか。みんな平安予備校や京都予備校に通って、京都府立とか同志社とかへ行く。そういう人の中で揉まれた。3年目は法然院や疎水のそばの下宿屋さんへ入れてもらった。
もともとは医者になりたかったん。パイロットも格好いいなって思ったけど、視力のこともあったしね。医者やったらええわって。」
しかし、大学進学は思い通りにはいきませんでした。
「そのまま京都の大学に行くところやったんやけども、立て看板で有名な某大学から『お前は来るな』って言われて。」
「立て看板で有名な大学」と言えば,自由な学風で知られる京都大学。昨年、市の条例に基づいて路上の立て看板が撤去され、「表現の自由」を脅かすとして議論になった。京大の医学部を目指していたという小津先生。高校時代からすこぶる頭脳明晰でいらっしゃったのでしょう。
「国立への進学がダメになって『浪人させて』って家に帰ってきたら『何言っとんのや。今まで京都に3年間遣っとったやろ。明日までに願書出したらまだ皇學館の二次がある』とかって。『あそこ受けてみろ』じゃなくて『あそこ行け』だった。」
小津先生はその皇學館大学の1期生。伊勢には戦前から神宮皇學館大学があった。戦後、GHQの神道指令で廃止されていたが、この年「皇學館大学」として復興したのだった。地元は待望の復興に盛り上がっていただろうが、京都にいた小津先生にその実感はなかったといいます。
「両親の中にはあったかもしれんね。」
小津先生は小津家の長男でいらっしゃいます。地元で伝統の大学が復興することに対する喜びとともに、大切な息子を地元に呼び戻したいという思いがお父様にはあったのかもしれません。
皇學館大学へ進まれた小津先生は、国文学を専攻されました。医師を目指していた高校時代からは大きな方針転換だったと言えましょう。
「チャレンジしてダメだったってことは自分の努力が足りなかったってこと。浪人を選択肢として選んだけれども、親の意向もあったし叶わなかった。どこへ行っても岐路があって、どっちにするかって迷う。それならば早く決断してそっち進んだ方が、人よりも先に行けるっていう考えが常にあった。
だから、京都でチャンスを生かせなかったんのは自分が悪かったんやから、次にチャンスがあるならそっちへって。」
「皇學館大学には文学部しか無かったんね、最初。選択肢は史学科か文学科。で、文学って解釈の仕方がいっぱいあるからこっちのほうが面白いかなと思ったんですね。もう一つは、医者をしながら古典の研究をした本居宣長さんのことが頭にあった。
本居宣長さんができたんだから、自分もできるんじゃないかと。僕も遅ればせながら今から勉強したら、人並みになれるかなって。」
もちろん、大学時代に取り組むべき「勉強」は学問だけではありません。
「学費を出してもらってたから、遊びに行くのは自分でと思って、家庭教師をやって。男子の仲間では『彼女が来るんや』とか言って髪をテカテカにしとるヤツもおったけど、僕の興味は海と山ばっかりやったね。夏は二見とかの海へ行って、潜って魚を突くの。
冬になったらスキーばっかり。当時はヒッコリーの板でね。流行ったっていうか...スキー雑誌が出てきて、オーストリアスキーが入ってきた頃で。伊勢でスキー教室をやるとなると、体育協会の会長さんが『指導者として行ってくれやん?』て言うてきてくれるくらい。
夏は海、冬はスキーばっかりやってたからよく焼けてた。海星に勤めた時も『えらい色黒い人やな』て言われたし、近所の人から『小津さんとこ、インドネシアかどっかの人が下宿してみえるの?真珠屋さんのバイヤーか何か?』って(笑)。」
大学を卒業し、いよいよ就職をという段になると、大学から教員としての就職口が紹介されました。
「『海星と暁と2つ求人があるけど』って言われて。で、『伊勢から行ったらどっちが遠いんですか』って聞いたら『暁は富田。海星は四日市、一つ手前や』って。『じゃあ近い方がええですわ』って、海星に決まり(笑)。」
縁は異なもの味なもの。そう言えるのは男女の仲ばかりではない。小津先生が海星においでになったのも「異な」ご縁によるものだったのですね。
「まず、身分証明書持って『大学から紹介いただきまして』って学生服で海星に来た。当時、皇學館は学生服だったから。その時の教頭は、稲垣先生だったんだけど、事務所に座っとんのさ。どういうわけか事務長と一緒に。
で、『キミが小津君か。うちは男子校やでな、まぁ、キミ、おとなしそうやけど、舐められんように,頑張ってな』とか言われてさ。『え、男子校なんや』て、その時に初めて知った。でも、東山高校が男子校だったんで、全然違和感は無かったね。」
「親父は『先生か。食いっぱぐれがないから行け』って。それまでは『明野の飛行学校行って自衛官になれ』とか言ってたんだけどね(笑)。」
海星に就職するにあたって,お父様がくださったアドバイスは他にもありました。
「お前が一番新米なんやから、他の先生が来る前に行っとけ。後から行くなんてそんな失礼なことするな。」というのがその1つ。
伊勢から近鉄の急行列車に乗り、四日市で内部線に乗り換えて、朝7時台の前半には既に学校に着いていらしたそうです。まだ誰もいない早朝の学校で、職員室屋教室の窓を開けて空気を入れ換えたり、黒板を綺麗に拭いたりして、他の先生方や生徒たちを迎えておられたのだと言います。確かに小津先生が担任するクラスの黒板は毎朝いつも綺麗でした。
「先生になったらそんな下手な字で通用せんやろ、書道行け。」というのもお父様のアドバイスでした。「そんなに下手でもなかった」というのがご本人の実感だったそうですが、それでも書道を始められたのは、やはり先生の向上心によるものだったのでしょう。
「川合東皐(かわいとうこう)っていう先生のところへ行って。海星終わって伊勢に帰って、夜7時、8時になってからそこへ行く。終わるのは9時、10時、11時やんね。毎日。だから寝てる時間は4時間くらい。伊勢から四日市の間の1時間は熟睡。」
故・川合東皐氏は三重を代表する書道家・篆刻家。単なる「お習字」とは一線を画す、レベルの高い指導を受けられたことでしょう。そんな川合先生のもとに通われる中で、新たな才能も発掘されました。
「ある日、『いっぺん彫ってみな』って、石にハンコ彫るやつ、篆刻を紹介してもらって、それをやって。『なかなかいい出来や』って、それを展覧会に出したんですよ。そしたら『日本書芸院展賞』ていう、あろうことか大賞をもらっちゃったんですよ。川合先生もびっくりしたけど,僕もびっくりした。」
「その後、海星の保健室でゴリゴリと彫って日展出したら落ちたんで、『もう止めや』」と思って、それから展覧会には出してないけど、雑誌には何度か出してもらいましたね。」
高校時代は仏教系の学校に通い、大学は神道系の大学に。就職したのはカトリック系の学校。その点だけ見ても小津先生は面白い経歴の持ち主だと言えましょう。
「すごいと思う。僕も時々『なんでこんな数奇な』って思う。だから、人と諍いを起こすこととか全く考えないのも、そうやって過ごしてきた中で身につけてきたことのせいかなって、勝手に思っとるんやけどね。」
確かに、学校でお目にかかる小津先生はいつも朗らかで、にこやかに私たち生徒に接してくださった印象があります。激高しておられる場面など見たことがありません
「クラスはいつも楽しかったよね。ガーガー言うこともなかったし。怒る時はね、人の前では怒らんだね。怒られたらみんな可哀想やもん。だから『おいで』って後で呼び出して。『お前な、先生めっちゃ怒っとんのやぞ』って。
『もし立場が逆やったら、僕はああいうことする前に自分で抑えるよ』とかって。高校生くらいの歳ならたいがい言わんでも自分で悪いて分かっとるやん。だから人前では怒らんようにした。話せばだいたい『すいませんでした』ってなる。ちょっと冷静な状態で話したら言葉数も少なくて済むし,すっと収まると思う。」
常日頃の付き合いの中で堅い信頼関係が築かれていたからこそ、そのような指導が成立したのだろうとは思います。
「海星の子と未だに付き合いとかできるのはそれでやと思う。ヨット部の子と酒飲んだりするよ。去年もね、ヨット部OB総会とかあってね、真っ昼間から『先生、名誉会長ということで、よろしくお願いします』って(笑)。
運動部の顧問としての活躍も印象深い小津先生。ご自身のスポーツ経験はといえば大学時代のスキーと、中学時代の陸上競技、長距離走くらいだそう。高校時代は勉強一筋だったようで、
「日曜になると平安神宮のところにある府立図書館にパン買って行って。下宿にいるのがイヤでさ、親父さんきつかったから(笑)。」
いろいろなクラブを担当されたそうですが、当然どれも自身が専門とする競技ではなかったそうです。それでも、多くの部員に慕われ、クラブを優秀な成績に導く、立派な顧問として活躍されました。
「入った時はサッカー部を持たされたん。ボールを蹴ったこともなかったけど。その頃のサッカー部は好きな者が集まって石ころいっぱいのグラウンドでボール蹴っとっただけで、試合も今みたいには無かったんで、
僕でも務まった。2年目のときやったと思うけど、田中秀二先生が部員だった時で、あろうことか新人戦で海星が初めて優勝してしまったん。顧問はボール蹴れやへんのに(笑)。」
おそるべき名将ぶりです。
今もたまにJリーグの観戦にお出かけになるそうです。
「先週も豊田までグランパス見に行きました。息子が仕事の関係で招待券もらうから。今回はSS席やったけど、前回コンサドーレ札幌が来て4−0で勝った時はVIP席やったん。VIP席はええんやわ。試合前とハーフタイムは飲み食い自由。酒でも何でもオードブルも並んどって。
Jリーグはスタジアムの雰囲気がすごい。4万入るスタジアムで,きれいなグリーンの上でね。観客がみんながワーッてなってるじゃない。僕も「ウォーッ」て吠えますよ。応援団みたいにずーっと跳ねながら応援するってのは無理やけどね。」
後に長く顧問を務めることになるヨット部との関わりは,意外なできごとがきっかけでした。
「あれはたぶん土曜日やったと思うけど、僕がけっこう遅くまで学校にいたら、当時の学校長エンリケ=リベロ神父さんから『先生、あなた運転できますか』って言われて。『普通車の免許は持っています』って答えたら、『そう、じゃあ私の言うことを聞いてくれるかな』て言われてさ。
『明日ね、マイクロバスを運転してほしいんだけど』って。『私はバスは運転したことがありません』って言ったら『じゃあちょっと来なさい』って車庫へ連れていって『これ動かしなさい』ってマイクロバスを指さすの。でね、『鏡が大きいから分かるから、自分の左がどこにあるかだけ気をつけて、ちょっと寄せてみなさい』って。
で、僕ミラー見ながら寄せたんさ。そしたら『小津先生、うまいよー。いい、いい、合格、合格』って。それで『先生、明日蒲郡でヨットの試合があるから、今日、学校に泊まって』っていきなり。『宿直室が空いてるから、そこに泊まりなさい。明日6時半に出るから』って。蒲郡まで、道も知らんのに。ほんとビックリこいた。」
白黒ツートンカラーのやや不気味なマイクロバス。記憶しておられる同窓諸兄も多いのではないでしょうか。ふだんは神父さんたちのどなたかが運転しておられたようですが、その週末に限ってどなたも都合がつかなかったのでしょうか。突然の「無茶振り」に驚いた小津先生でしたが、言われるまま、その晩は学校に泊まることにしたそうです。
「玄関からすぐの、職員室へ上がる階段の横の物置みたいな部屋。あそこに宿直室があって、火鉢が置いてあって。そこに泊まることになった。神父さんたちが食事やら寝起きしとった部屋の横で。朝起きたら神父さんたちと一緒に朝食。何食べるのかと思ったらトースト。バターはあったけどね。どんぶりが出てきて、『先生、コーヒー飲みますか?』て。
インスタントコーヒー。大きなスプーンでガバッ、お湯ジャバジャバジャバってどんぶりでコーヒー飲んで。」
その後しばらくして小津先生がヨット部顧問になられた背景には、そんなできごとがあったのでした。
「リベロ校長から『今ドメニオがやってるけど大変だから、先生ヨットやって』とか何とか言われて。練習は霞ヶ浦まで行ってた。当時は海星のフネっていうのは無かったんでね、誰かからもらったフネで練習しとった。艇庫もその人達のを使わせてもらってたし。練習で土日が潰れて。1回行くと手当が千円くらいかなもらえたけど、交通費すら出やんもん。
『何しに行っとるんやろ』って(笑)。でも、文句言うてもしゃあないから、使われてなかったヨットをもらって自分も一緒に乗ってたけどね。練習は湾内の近いところでやるだけでね。セール上げて、ちょっとラダー(舵)を動かしてっていうぐらい。」
「三重国体の時に津にヨットハーバーができて、それからはそこで。三重国体では三重県ヨット連盟の広報部長をやらされて、なおかつ優勝したもんだから海へバーンと放り投げられてね。国体や総体はいっぱい行ったよ。鹿児島、福岡、江ノ島(神奈川)、霞ヶ浦(茨城)、あちこち行かしてもろて。」
三重県下にヨット部を持つ高校は少なく、また、ヨットの持つ優雅な格好良さも相まって、その活躍は常に注目の的でした。戦績も優秀でしたから,尚更でした。
小津先生は、野球部の遠征などの折にもマイクロバスの運転を引き受けることになりました。。
なんでかって言うたら、中村(晏)先生ご存知でしょ? その頃、中村先生が野球部長してみえたん。岩間先生が会計でね。で、中村先生が『長野遠征行くから』『はい』。『愛媛、松山高校行くから、小津君空けといてくれよ』『えっ? はい』。『「熊野で春合宿やるから』『はい』で、僕がドライバーとして熊野まで運転してく(笑)。」
その野球部熊野合宿は、小津先生にとっても印象深いものとなった。
「中村先生が『合宿行くのかわいそうやで、万博見せたるわ』って。大阪万博、千里丘の。ボールとかの他に1週間分ぐらいの着替えもあるし、バッグとかギュウギュウなん。それを詰め込んで行った。」
「その後、大阪千里丘からずーっと和歌山通って熊野まで。今みたいに高速道路が無いじゃん。ドライブインとかコンビニも無いないもんで、晩飯どうしますってなって。『何にも無いとこやのう』って中村先生。で、走っとったら寿司屋があって、岩間先生が『いっぺん聞いてきますわ』って。
でも、人数が多すぎて無理で。それでも中村先生『何でもええで、一番安い寿司、アゲか何かで握ってもらって、もうお櫃、空にしてしてもらってこい』って(笑)。で、それをバスでみんなで食べて。」
「僕はずっと運転しっぱなしやった。熊野の近くまで行って、朝8時頃、信号で停まって。『さあ、もうちょっとや』ってブーってアクセル踏んだらカランコロンって音がしてさ。動かへんのさ、車が。エンジンかかっとるのに。そしたら助手席に乗っとった生徒が『先生、何か落ちてきました』って。
見たら、シャフト。たまたますぐ前に自動車屋さんがあって。で、『直りませんか』て言ったら、『とても一日では直らんな』って。じゃあ『必要な荷物だけ持って行こう』って。あれはびっくりしたね。走ってる時じゃなくて良かった。事故にならなかったもん。その後、直ったバス取りに行って、獅子岩んとこ、砂の上を一緒に走って、ノックして…。若かったんやろね。26歳の頃、結婚する前やね。」
野球部の顧問に就任されたのはそれから随分後のことだそうです。
「湯浅君が監督になっとる頃やで、もうだいぶん後やわね。湯浅君は僕がノックしてた頃、選手だったんだから。野球部長は3年間。40代の頃かな。その時はもう、今教頭やってる服部先生が副部長でおったん。『服部君が部長やったらええやん』ていうたら『いや、僕は...、先生やってください。僕は副部長がいいんです』って。『そんなことないやろ』って言うたんやけど...。
で、僕が野球部長になって春そのまま1年生大会で優勝して、あれあれって甲子園行って。3年間で2回甲子園へ行った。3年目やったかな、国体も行ったよ、呉まで。バス運転して。ベスト8か何かになった。
現森下監督も、小津先生が国語の授業を受け持った印象深い教え子のお1人です。
「彼は頭も良かった。僕の授業受けとって、『ずっと野球やっとって、なんで僕の授業の時寝やへんかったんや』って言ったら、『寝たら分からんようになりますから。家帰ったら勉強する時間無いですから。先生の授業面白いですから聞いてます』って。『君には参った。感服するわ』って。でね、あいつと約束したん。
『甲子園行ったら西瓜、プレゼントしたるわ』って。あの子、西瓜好きなんよ。『西瓜ばっかでもいいんです』って言うくらい。で、富山に俵みたいな大きな西瓜、2つ分ぐらいある西瓜あるじゃない。入善ジャンボ西瓜。『あれプレゼントしたるわ』て言ったら『ほんまですか、先生』って、ほんまに行ってしまってさ。プレゼントした。えらい喜んでくれて。いろんなことあったわ。」
1年間だけでしたが、フェンシング部の顧問もされました。
「その時も国体に行った。小柄な子やったんやけどね。素人だからあんまりアドバイスできへんじゃん。でも、マスク取っている時に、『ちょっとおいで』って呼んで。『あのなぁ。僕素人やでよく分からんけど、キミ、すごくバランスいいぞ』って言ったん。『あそこで、あと足の分だけステップが先に出るようなこと考えたら、相手より先に突けるぞ』って。それが一言だけのアドバイス。」
いろいろなクラブが数々のの輝かしい成績を収めてきた海星の歴史の中でも、4つのクラブを全国大会に導いた先生はごくわずかです。
「器用でいらっしゃるんでしょうね」と申し上げると、
「名前がね。きよーたか(清貴)ってくらいだから(笑)。」とかわされてしまいました。
そんな「名将」小津先生のクラブ指導で特筆すべきことは、いつもハードなトレーニングを強いる「スポ根」タイプのものではなかった点でしょう。
「とにかく選手に恵まれた。僕は人に恵まれてるの。ありがたいことに。クラブの指導っていくつか方法があると思う。孫子の教えでね『戦したらどっちががたくさん死ぬ。戦わずして勝てたらいいじゃないか』ってのがある。戦してお互い傷つけ合ったら反感しか残らないじゃん。それと似てて、部活の指導もスパルタでやって負けたら生徒からも文句出る。
そうじゃなくて、『そこをこうしたら?』『今日はいいねぇ』とか言って、歪んだところだけ直してやったら,伸びるもんは伸びると思う。」
教科の指導、国語の授業はどんなスタイルだったのでしょうか。
「僕、今だから言えるんだけど、学年によって教え方を変えてたんですよ。1年生の時は、活字に慣れてもらう。男だったら、あんまり国語って好きじゃない子が多い。小説なんて読まへんし。それで『実はね、漱石だって猫蹴っ飛ばしたことあるんだよ』みたいな話から入って。
2年生になったら『問いに対する正しい答え方』みたいな話。『質問に合った答え方でないと、記述式の試験は受からないからね。そういう練習をするよ』と。で、3年生の時はもう具体的な受験の対策。『君らが受けようとしている大学は去年はこんな傾向があった』って。」
完全に大学受験を意識した授業をしていらっしゃったんですね。少し意外な気がしました。
そんな小津先生には、どこから情報を嗅ぎつけたのか、予備校から引き抜きの話が来たこともあったそうです。
「たまたま南山大学の出題予想がズバリ当たった年があって。その年やったと思うけど、河合塾から『うちに来ませんか』って年収一千万くらいで。海星よりずっと条件が良かったから『ほほう』と思ったけど、うわべの人気の有無だけでクビにされるようなことになるの嫌やなってっ思ったし、海星が男子校で僕には合っとったもんで。で、丁重にお断りした。」
自身に合っているとおっしゃる男子校。その良さはどんなところにあると感じておられたのでしょうか。
男は男同士でないと分からないところがあるからね。男やったら、悪いことしたら「コラ」で済むしね。卒業しても友人関係でいられる。男女共学だと独特のしがらみがあって...。」
就職された当時、校長を務めておられたエンリケ=リベロ校長には大きな影響を受けたと小津先生はおっしゃいます。
「僕は海星に来て良かったと思う。まずエンリケ=リベロ校長の,教育ってものに対する信念がすごかったから。他の神父さんとも一線を画しとった。『自分はここ日本へ来て、海星高校を任されてるから、こうするんだ』っていう信念を持ってたね。生徒の顔と名前も全部覚えてたしね。日本語も素晴らしかったし。」
「就職間もない新米の僕に『もっと良い大学に行かせるにはどうしたらいいですか?』って聞くわけ。僕、答えようが無くってさ。『まず先生が勉強するべきだと思います』って言ったさ、わからんから。そうしたらリベロ校長は『そうだね。先生が勉強しなきゃ、生徒は勉強しないよね』って。それで、ずいぶん気に入ってもらえた。」
リベロ校長については「厳しい人だった」という話もよく耳にします。
「『厳しい』ってのはね、何でもかんでもガミガミ言うってことじゃない。彼は何事もきちんとまっすぐ線引く方だったのね。ピシッと方向性を示す。そういう意味やろね。悪いことは悪い、良いことは良い、て。『これは良いことだからやってください。』とかね、『これは私はこうしたいんだけど、あなたどう思いますか。じゃあこうしましょう』って。
それだけでない人間的な魅力も豊かな方だったとおっしゃいます。
「ジョークも分かってて、『津のヨットハーバーをいっぺん見に行きたいから』っていう時やったと思うけど、一緒に車で行って。津の栗真の変則交差点、あそこは一方通行だから左には入れないわけ。それを、国道が混んでたらリベさんが『こっちから行きましょう』って言うから『ここは一方通行だから入れません』て答えたわけ。
そしたら『ワタシ、右目が義眼だから、見えないけどね。ガイジンだから読めなかったって言うよ』って。『運転してるの僕だから、通用しません』って言ったら『ワハハ』って笑ってね。そういうユーモアセンスもちゃんとあって。『ヨットは逃げていかないからゆっくり行きましょうね』って。」
教員の多忙が社会問題になっている昨今だが、昔の教育現場はもっと大らかでした。
「当時は、部活を遅くまですっと見なきゃいけないってことがなくて、『好きなもん、やっとれー』って、先生方は4時になったら一斉にさーって帰ってた。僕は学校終わったら中村先生と岩間先生と一緒に駅前でまずコーヒーを飲むってのが多かった。
で、倉田先生と一緒に伊勢まで帰る時は『今日は時間空いとるでビリヤードやろか』って。ビリヤードは岩間先生に教えてもらったんやけどね。そういう楽しさがあった。」
先生同士が仕事以外の場でゆったり交流できたことは、きっと先生同士の信頼関係を深めたことでしょう。そのことは結果として学校の円滑、円満な運営につながっていたはずです。先生方に余暇を楽しむゆとりがあったことも、先生方の気持ちの状態をより良くしたでしょうし、先生方をより魅力的にしていたのではないでしょうか。
他の先生と衝突したりすることも無かったそうです。
「喧嘩はなかった。意見が合わんことはあった。『かわいそうやな、あの人はこんな考え方なんやな』って。例えば、僕は修学旅行では夜中ほとんど寝なかったんですよ「何かあったらあかんから」って。でも「関係ない」って思ってる人はぴゅっと部屋に行って寝とる。修学旅行は遊びやと思ってる人、結構いるよ。」
喧嘩する時は堪えてニッコリしたほうがうまく穏やかにいくかも。言いたいことをグッと飲み込んだら相手も傷つかんで済むかもしれん。
後から「ゴメン」って言ったって、歪んでしまった気持ちはピタッとまっすぐには戻らんからね。一度聞いてしまったら、やっぱり残るものは残っちゃうもん。悪いところを見るんやったら、ええところを見たほうがええし、人を傷つけるんやったら、自分を傷つける方がまだ救われる。
逆に、嬉しいと思ったこと、ありがたいと思ったことは素直にね「おかげさんで、ありがとうございました」って。素直にありがとうって言えることが一番尊いと思う。
小津先生にお話をうかがっていると、様々なことがらに対する見方、関わり方に、小津先生特有の余裕、大らかさが感じられます。
「『余裕』っていえば聞こえが良いけど、実は『半ボケ』なんかもしれん(笑)。この社会では、先走っても飛び出しても、やっぱり叩かれるのが常だからね。だったら、それよりちょっと控えておいて、『ここで何か、自分のためじゃなくて、人のためにできることはないか』って考える。もう一つは論語に出てくる『恕(じょ)』ってこと、『自分がされてイヤだってことを他人にしない』。
そういう気持ちが僕は強いのね。別に論語を読んだわけじゃないけどね、教えてはいたけど(笑)。」
そんな心構え、態度は、いつ、どんなふうに身につけられたのでしょうか。
「いつでしょうね。でも、たぶん僕はあの2歳の真っ暗な中で感じたことっていうのがどっかにあって、それからずーっと。満州国黒竜江省孫呉から命を預かってきてる、授けられているっているのが、とにかく心のどこかにあるの。『おかげさま』っていう伊勢の言葉のとおり。だから、無理をせず、自分を生かせるチャンスがあったら、そのチャンスを与えてくれたところで、自分を生かしていけばいいじゃないかって。そのほうが気が楽だもん。」
「だから受験失敗した、じゃあ切り替えてこっちでがんばりゃいいじゃないかって考えられたんだと思う。来るべきものは絶対に来るから、死であれ何であれ。冷静に迎えるためにはどういうふうにしていけばいいかっていうかね。宗教にこだわるわけやないけど、神道もそう、カトリックもそう、仏教もそう、禅宗の本も今いろんなの読んでたりしていても、勉強になる。良いことは良い,悪いことは悪いってシンプルに判断して歩んでいけば良くって、金がほしい、人騙してでも金がほしいとか考え出すと欲望の虜になって、ややこしくなる。」
向上心も人一倍お持ちの小津先生。そうやって、目の前のことに真剣に取り組んでおられたら、熱く,がむしゃらになりそうなものです。しかし、小津先生からはそんな「暑苦しさ」が感じられません。
「そうなったらね、思慮分別がダメになっちゃう。『無我夢中』ってことは『五里霧中』と一緒なん。咄嗟の時にあるべき行動を取るには、やっぱり禅語でいう『平常心』でいないと。そうでないと、大切なものを見失っちゃいますよ。だから、がむしゃらに周りをかき分けて進むくらいだったら、一旦まず落ち着いて状況を判断して、それからダッシュしても遅くない。」
いろんなことが腑に落ちた。そんな気がしました。
現在の日々の暮らしについてもお話をうかがいました。
「僕は夜は必ず10時には寝る。テレビもあんまり見ないの。昔からほとんど見ないね。見るのは『笑点』くらい。良いニュースが流れてきたら見たいけど、最近ね、年寄りが車で突っ込んだとか、子どもがどうのこうのとか、かわいそうで。9時にはもう2階へ上がっていく。奥さんはテレビ好きで『ポツンと何とか』とか見てるけど。それはそれでいい。楽しんでるんだから。11時過ぎに風呂入ってから上がってくると、僕はもう寝とる。
朝5時には起きちゃうから、まずタブレットでニュースを見て。新聞は取ってない。もう2年になるかな。
それから、朝食。僕は料理とかが好きなんで朝は毎日やる。毎日包丁も研ぐし。昨日は鯖の大きいやつをもらったから全部卸したりとか。奥さんの実家が料理屋で、昔は僕も割烹着着て手伝っとったくらい。」
食べるものにも気を遣っていらっしゃいそうですが...
「僕はきのこ類、海草類が好きなんです。だから、もずくとかシイタケとかはよく食べる。あと納豆は常に食べてる。お昼だけはピーナッツを10個くらい食べる。お昼にピーナッツ食べておくと、3時におやつ食べんでもいい。奥さんはきっちり3時になると『3時だわ』ってお茶入れたりしてるけど。僕には間食するっていう習慣が無いの。」
無理したり我慢したりという感じのない自然体でありながら、健康的な食生活でいらっしゃいます。
「夜になると僕はお酒飲むけど、おつまみも自分でぱっぱと作って。ふだん飲むのはまず発泡酒。その後、25度の焼酎『鏡月』を割って飲む。安いから。日本酒が飲みたいけど、日本酒は高い。奥さんは全然飲まんから、昔からずーっと一人で飲んでる。料理屋の娘やから飲めると思てたんやけど、彼女は飲めない。」
お酒を飲むことはお好きな小津先生。でも「外」で飲まれることはあまり無いそうです。
「親父はシベリア抑留を経験してるから、飲み食いすら制限されたわけでしょ。マイナス何十度ってところで。そういうところから命からがら戻ってきたってことがあったからら、材木屋の仕事で『いい値段で売れた』なんてことがあると、パーッと外で飲むってのはあったね。僕は親父のそういうの見てるから外で飲むってのがあんまり好きじゃなくて。」
料理以外の家事も積極的にこなしておられるそうです。
「掃除とかも全部できるんで、お風呂掃除とかも全部僕がする。洗濯も洗ってハンガーに掛けたら干しにいって。入れてきたら自分のものはちゃんと畳んで。そういうのもちゃんとやる。自分が着るもんやったら自分が着やすいようにきれいに畳めばいい。かと言って奥さんのもんは畳まんのよ、嫌がるからね。夏冬の衣替えも自分で。
自分でやれば『あそこに入れた』って覚えてるじゃん。毎食後の食器洗いもやってる。息子の家族が来て一緒に飲んで食べると、息子の奥さんが食器を下げてくれるけど、洗うのは全部僕がやる。なにも偉そうにふんぞり返っとることないやろ。体を動かすことになるし。」
世のお父さん方には耳の痛い話です。
「勝手な主義主張やけど、相手が嫌でなかったら、やればいい。そう思ってる。別に『こうしたら喜んでもらえる』とか考えてやっているわけじゃない。手が空いとるんやったら自分がやったらええやないか、と。自然体で。それが平和な家庭の秘訣。僕がやったら相方は自分の時間が持てる。彼女は刺繍したり編み物したり、したいことがいっぱいあるんよ。」
先生ご自身のお楽しみは?と尋ねると「勉強」だとのお答え。
「古文書とか禅の本とかNHKの番組テキストとかを読んだしてり、気に入ったところ、格言名言の類をピックアップして、ちょろちょろっと書いてる。『おっ』と思うようなことがあると、便箋に書き取るわけ。落ち着くしね。やっぱり勉強しなきゃいかんと思う、いくつになっても。」
頭が下がります。
もう1つのお楽しみは「買い物」なのだそう。冷蔵庫の中身を管理しているのは小津先生で、奥様が生協の宅配で買われる物の他は「ボケ防止のため」にと小津先生が買ってこられるとのこと。
今でこそ家事を2人で分担する夫婦も珍しくないが、小津先生の世代においては極めて珍しいのではないでしょうか。
「僕は家事が苦にならないタイプ。やれることは全部やる。女の人のように手荒れを気にしなくていいしね。リタイアする前からできるだけのことをやってた。今日まで来れたんは相方さんのおかげやでね。協力したほうが豊かな気持ちで生活できるでしょう。僕は『こうしてもらったら嬉しいかな』と思うことを、相手が嫌がらん限り、やってあげたらいいと思ってる。『さあやろう』と思う前に、まずやればいい。」
そんなお2人には夫婦現喧嘩など無縁のように思えますが、
「喧嘩するぐらいやったら結婚せんかったらええやん。結婚してから1回も喧嘩してないよ。そうやって孫にも言ってる。喧嘩する必要が無い。いつも『恕』の気持ちで。腹の立つような場面でも、相方にだってできんこともあるし、そういうことになったのは自分に落ち度があったんかもしれん、って考える。
だったら、言わんでもええな、と。怒られて相手が嬉しがるなら怒ってもええけど、何か言うてパコッっと反論が返ってくるようなことやったら言わんほうがええ。」
「 世の中ね、自分1人で生きてるわけやないからね。自分の我だけを張って『俺が俺が』って生きてるよりも、お互い助け合って生きた方がいい。頑張れる時は頑張って、我慢する時は我慢して。これまでお互い助け合ってやってきたんだから、これからもとげとげしいよりもいいかなって。ただそれだけのこと。」
そんなご夫婦の馴れ初めをうかがうと、第1声は「たまたま、偶然」。確かにどんな結婚も、つまるところ「たまたま、偶然」の賜物でしょう。
「昔は、修学旅行の翌日は休みになったん。で、その頃は菰野に住んでたんだけど休みを使って伊勢に帰ることにした。そしたら『お前に見合いの話が来とるよ』って。別に結婚したいわけでもないし、面倒臭いし、前向きじゃなかった。でも、相手が伊勢まで来るっていうから『会うだけ会ってもええよ』て。
『どこの人や?』て聞いたら、四日市だって言うから、『それなら、翌日四日市に帰るで、送って帰りゃ済むで』」って。で、ひょこひょこやって来たんが今の相方さん。宇治山田駅のとこの喫茶店で『あなたもコーヒーでいい?』て聞いたら『私コーヒ飲めないんです』って。『紅茶が好きなんで、紅茶を』って。今もそう。コーヒーそのものが合わんみたいでね。」
「で、その後、四日市へ送っていったん。スレンダーで別に可愛いってわけでもなかったんやけど、喋っとっても無駄にペラペラ喋んないし、今でもそうやけど当時もマニキュアしてる人が多かったのね。でも何もしてへんやんか。イヤリングもしてないし,クビにも輪っかはめてないし、シンプルな人やなって思ったの。
で、実家の料理屋まで送って行ってさ。『よろしかったら、またお誘いしますけど』って言ったら『よろしくお願いします』って言うから、2、3度出かけました。」
仲人さんがお似合いの2人を引き合わせてくださったんでしょう。
「うちの奥さん、目が悪かったんで、欠点に気づかんかったんやろって、よく冗談で言うけどね。奥さんも『そうかもね〜』て言うてる。」
仲の良いご夫婦。一緒にお出かけになることももちろん珍しくはありません。もともと奥様がメンバーだった地元のウォーキングのサークル「歩こう会」。「清游会」と名前が変わった今は、小津先生が会長をお務めなのだそう。
「ちょっと旅行したりとか、春はお花見会、秋は名月を愛でる会とか言いながら、いつも近所にある大きなお家をお借りして飲み会とかやるんです。僕が一番下っ端で、一番先輩の方が91歳、その次の方が88歳。みんな高齢じゃないですか。もう歩けないからってメンバー辞める人もおるし、存続をどうするか話し合いをしようってなった時に司会を頼まれて。
『先生といっても歯医者じゃないけど司会はします』とかワケの分からんこと言うて引き受けた(笑)。『解散するか』って話にもなったんやけど、年寄り同士って何か理由作って集まらんかったら、挨拶だけになって疎遠でお互い寂しいじゃないですか。だったらもうちょっと形を変えてでも続けた方がいいんじゃないですかっていう話になった。
そしたら、ご婦人方が『あんた若いし、会長になんなよ』って。それで決まり。選挙も何も無いんやから(笑)。」
「それで名前を変えることになって。僕は『歩』っていう字を残して『歩行露会(アルコール会)てどうです?』て言うたんやけど、『それはちょっと...』って(笑)。『歩いてあちこち行きながら飲めるからいいじゃないですか』って言ったんやけど、賛成は1票僕だけやった(笑)。」
歳をとって歩けなくなってもできることはいっぱいあります。お酒だって、話題があったほうが美味しいに決まっています。最年少で会長をお務めの小津先生は、いろいろなアイデアを絞って清游会を盛り上げておられるようです。
「去年の秋の会の時は文化祭みたいなことをやった。みんながふだん趣味でやってることを持ち寄ってっていうことをやったわけ。ちょっとずつ変わったことをやろうと思ってね。」
お話をうかがっていると、今の小津先生の暮らしが、思索と感謝と利他の積み重ねであるように思えてきました。その積み重ねが、日々を穏やかなものにしているようです。
「76歳を迎える身になっても、こうやって何の欠損もなく元気に生活できる。これはありがたいですよ。感謝。感謝できるってことは素晴らしいと思う。」「限られた人生、後悔しても戻らないですからね。常に今いかにあるべきか。明日はどうあるべきか。寝る前にちょっとだけ、5分ですわ、考える。
『いつまで生きられるか』とか考えるとつらいけどね。明け方に目が覚めて『これはえらいなぁ。どうしようかなぁ』て思うこともあるけど、なるようにしかならん。『今日も元気や。一日がんばろう』って。で、仏様に『おはようございます』って手を合わせる。ご先祖様に手を合わす。そんなもん実際には伝わるわけがない。
けど、『今日あるのはご先祖様のおかげ。ありがとうございます』って手を合わせるだけで、自分の心が休まるし,今日も頑張るぞって気持ちになる。」
「なんか、たぶん、ご先祖さんとかに守られとるんやと思うの。でね、僕はいつも何かにつけて思うのは,宮本武蔵の『神仏は頼むべからず』って言葉。『勝たしてください』とか『こうしてください』って頼るもんじゃないっていう。お賽銭やらお布施を出してお願いするもんじゃない。だって『神様仏様、助けてくれ』って言っても、助けてくれるもんやないでね。
どんな場面でも自分で切り開いていかなあかん。『神仏は尊ぶべし』。あくまでも敬うもの。そういう気持ちでおったら、自分の心も救われるし、力が抜ける。ものごとの判断も冷静にできる。人の喜びを喜べるし、楽しみは楽しめる。そういうような気持ち。だから僕は神社仏閣に行ったら、必ず、前を通る時ですらアタマを下げる。」
「奥さんにも『ありがとう。感謝してるよ』ってよく言ってる。奥さんは慣れとるもんやから『あ、そう、ありがとう。わかってるから』て。」
「素直な気持ちで『愛してるよ』とか『ありがとう』とか僕は素直に言えるよ。ここまで支えてきてもらったんだから、やっぱりそうでなきゃいけないんで。連れ合っとんのやでね。相方やでね。『愛してるよ』『ありがとう』ってのは大事やと思う。取って付けると言いづらいけど、本当に心から言ったら素直にすっと言えるから。」
「メールなんかの最後に、自分の号じゃないけど『呑美里人(のんびりーと)』て打つことあるんですけどね。この里にいて、この人と一緒にいて良かったなという。今日みたいに卒業生に会いに来てもらって、こういうお話ができて、美味しいもんがいただけて、良かったなって思うもん。ありがたい話ですよ。」
「限られた人生、楽しくなきゃ。つまらん人生送るよりは『あぁ、この人と一緒にいてよかったな』『あぁ、海星行ってよかったな』って。」
「人生いくつになっても勉強です。それはアルファベットを見るとか数字を見るとかじゃなくて。自分の置かれた環境の中で、自分の生き様をどうするかっていう勉強。『こうあるべき、こうしたほうがいい』っていうことを考える勉強ね。『お金を儲けよう』とか『あれができたらいいな』とか、そういうこと考え出したらきりがない。
今ある中でどう生きていくか、自分で考えて自分で動く。そういうのが僕は人生を豊かにすると思う。1回しかないからね,生き様を示せるのは。」
仕事のこと、家庭のこと、地域のこと。生きている私たちを取り巻き、支えているそうしたことにどのような態度で向き合っていくのか。それはつまり自分の人生をどう生きるか、「生き様」をどうするか、ということに他なりません。
日々の慌ただしさの中にいると、目先の些事に神経と感性をすり減らし、自身の立ち位置や向かう先を俯瞰で見ることができなくなっているように思います。久しぶりに小津先生にお目にかかり、お話をうかがって、改めて多くの示唆をいただくことができました。「恩師」はいくつになっても「恩師」です。ありがとうございました。