笹川団地を南北に貫く大通り。そこから一本入った静かな通りに川村浩晏先生(在職一九六五〜二〇〇九)のお住まいはありました。風格ある秀麗な赤煉瓦の塀。端正に刈り込まれた庭の木々。先生のお人柄がそのまま表れたようなお屋敷の構えに、早くも背筋が伸びました。
1年ほど前に同級会に顔を出していただいたので、「久しぶり」な感じはありません。いつお目にかかってもお元気そうですので安心しますが、現役の頃と比べると随分お痩せになったご様子。太るのが健康上良くないのはもちろんですが、齢を重ねて痩せられると、それはそれで心配になります。
「周りがうるさいもんで、ガンの検査、上から下まで全部したけど問題なし。」
痩せた理由は「DNA」だと断言する川村先生。聞けば、ご両親もご兄弟もみなさん60歳を過ぎた頃からお痩せになったのだとか。
お元気さに感嘆していると、
「仕事が無いんやもん」
と川村先生。確かに「仕事」が心身の負担になることは間違いありませんが、無職=健康とは限りません。若い頃から身体を動かし続けていることと、何事にも前向きな気持ちの持ちようが健康の源のように見えます。自家消費用の野菜の大半を作っているという家庭菜園も、健康の秘密かもしれません。
「ほんでも、やっぱり元気は無くなってきとるな。こうやって喋っとると蘇ってくるから元気に見えるけど、普段はそうでもない。」
教え子と顔を合わせると「スイッチ」が入る、ということでしょうか。私たちも先生を前にすると背筋がすっと伸びる気がしますから、先生にもそういうことはあるかもしれません。
「ずーっと女房と顔突き合わせとってみ。日によっては四六時中一緒やんか。そらもう、たまらんで。」
そんなふうに笑い飛ばせるのも、仲の良い証拠。夫婦の仲の良さも健康の秘訣なのでしょう。
応接間でお話しをうかがいました。
川村先生は一九四三年生まれ。生家は近鉄川原町駅の近くにありました。海蔵小学校から山手中学校、高田高校へと進み、日本体育大学を卒業。その後、四日市に戻って体育科の教員として海星高校に就職されました。
海星OBではない川村先生。教員だったお父様の影響もあって早くから教員を志望していましたが、必ずしも海星への就職を熱望していたというわけでもありませんでした。
「公立の試験も一応受かっとって、鵜殿村まで面接に行った。」
当時の採用面接は赴任予定地で行われていました。鵜殿村(現・紀宝町)といえば三重県の最南端。交通も不便だった当時のこと。面接を受けに行くのもちょっとした「旅」のようだったことでしょう。
「私学はそろそろ数が増えてきた頃。三重高もメリも鈴鹿も一緒の時期にできたんよ。それで、県の一次試験に受かったヤツはひっぱりだこやったん。」
ベビーブーム世代が高校へ進学した一九六〇年代前半は、高校進学率の上昇もあって、その受け皿として全国的に私立高校の開設が相次ぎました。三重県もそうした現象の例外ではなく、次々に私立高校が開校。当然、現場を支える教員の確保は各校の重要な課題となりました。もちろん一足先に開校していた海星高校も、様々なコネクションを使って、優秀な新人教員を探していました。
当時、海星の教頭を務めていたのは稲垣栄三先生。その稲垣先生が川村先生のお父様のお友達だったといいますから、教員志望だった「川村青年」に白羽の矢が立ったのは自然なことでした。しかし、ご縁はそれだけではありませんでした。
「中村先生が小学校の頃、親父の教え子やったん。」
中村晏先生といえば、ある世代以上の卒業生なら誰しも知っている、体育科の名物先生。さらには、中村先生のお姉様にも、お父様が校長を務めていた学校の教員だったというご縁が…。後に海星体育科のツートップを担うことになる中村・川村両先生の間には、初めからそんな深いご縁があったのですね。
その中村先生が川村家を直接訪れ、「ぜひ海星に」と直談判したのだそう。
「俺が旅行行っとる間に親父が勝手に決めたんやわ。『海星にしといたぞ』って。」
他私学を選ぶ理由も特に無く、遠方への赴任にも気が進まなかった川村先生は、お父様を介した海星とのご縁を大切に考え、海星への就職を決心されました。一九六五年。東京オリンピックが開催された翌年のことです。
日本中が熱狂した東京オリンピックの翌年ですから、スポーツへの関心は日本史上最高の高まりを見せていました。体育の授業や先生方にも注目が集まっていたでしょう。特に、川村先生の専門競技は「器械体操」。遠藤幸雄が個人総合で日本人初の金メダルを獲得し、男子団体も五輪2連覇を達成した直後のことですから、「体操」ができる新人教師、川村先生への注目は大きかったようです。
「『あんなん見せてくれ』とかよく言われたわね。でも海星には本格的にやる鉄棒なんかあらへんやん。砂場のとこの鉄棒なんかじゃ怖いわね。しならんしね。あれは反動があるからできるんやから。」
そう先生は仰いますが、鉄棒のタテの棒に両手で掴まり、鯉のぼりよろしく水平に身体を支える、そんなことが川村先生はできるらしい。そんな噂を聞いたことがありました。
「やっとったよ。『これできたら成績[5]やる』とか言うて。あれは専門的に体操やったもんやないとできないね。ただ力が強いだけじゃなくて、力の入れ具合にコツがある。突っ張る力と引っ張る力のバランスを巧く取れれば、ピンって横になる。初めて見るとみんなびっくりするけど、あんなもん、コツだけやから、誰でもできるんや。」
さすがに「誰でもできる」ということではないでしょうが、若い頃の川村先生にとっては朝メシ前の技だったようです。そうやって実際に生徒にやって見せ、体操の面白さ、体育の面白さを伝えておられたのですね。
海星の体育の授業は、学年やクラスをまたいで合同で行われることも多いですから、川村先生のお世話になった生徒の数は膨大な数に上るはずです。柔道の授業も担当してみえましたから、手取り足取り直接的な指導を受けた卒業生の数も相当数いることと思います。それでも、川村先生は関わった全ての生徒を記憶していると断言されます。
「全員覚えとるよ。名前はポンと出てこんけど、10分経てば全員思い出す。顔とか体の動きはみんな覚えとる。」
「体の動き」を覚えていらっしゃる、というのが面白いですね。体育の先生ならでは。独特の視点をお持ちなんでしょう。
「みんな椅子に座っとるわけじゃないやん。みんな動き回っとるやん。」
確かに、生徒たちの跳んだり投げたり走ったりする姿を目にするわけですから、生徒を記憶するのに役立つ情報の量も、他教科の先生方と比べて多いかもしれません。椅子に座って授業を受けている場面よりも、生徒たちの表情は豊かでしょうし。
ところで、海星の体育といえば「スクワット」。猛烈な筋肉痛の記憶とともに、幅広い世代の卒業生が印象深く覚えているはずです。あの、海星名物「スクワット」。トレーニングのメニューとして体育の授業に取り入れ、海星名物に育てたその人こそ、川村浩晏先生でした。あの「スクワット」はどういう経緯で始まったのでしょうか。
「最初海星に勤めた時に、授業できる道具が何にも無かったんや。だから体育の授業といったら卓球かソフトボールしかしとらへん。そういう状況やった。そっから始まったんやわな。」
用具不足から始まった苦肉の策、だったんですね。川村先生が就職した当時、海星の体育科には横山訓先生、中村晏先生という二人の先輩がいらっしゃった。
「俺が入った時の高三の担当が横山先生。三重大出身でちょっと肌が違った。二年生を中村先生が持っとった。中村先生は日体大の先輩。で、俺が入って一年生を持ったん。三人がきれいに一学年ずつ持ったわけやな。だから学年ごとに凄い個性があった。俺の持った学年は可哀想やったわ。横山先生の授業はソフトばっかやっとんのや。で、俺の持った学年は「イチ、ニ、サン! ニ、ニ、サン!」ってトレーニング(笑)。「なんで僕らだけ?」「やかましわ!」て。」
若かった川村先生。楽しいだけでない「理想の体育」をやりたいという熱い思いがあったのでしょう。生徒のためを思う気持ちも人一倍強かったのだと思います。
「せっかく男子校へ来たんやから、鍛えてやりたいっちゅう気持ちもあった。いい思い出を作ってやろうという気持ちもあった。きついことは、無理やりさせられないと自分からはせんもんな。特別きついクラブに入った者は別やけど、普通の生徒は経験せんわね。でも、やっぱ忍耐っちゅうのは大事やからな。」
確かに、トレーニングの時間は「筋力」を鍛える時間であるとともに「忍耐力」を鍛える時間でもありました。大声を出して気力で苦痛を乗り越えました。乗り越えた先には猛烈な筋肉痛が待っていました。そんな記憶は多くの卒業生に共通する思い出です。しかし、そんなトレーニングの授業も、当初は長く続けるつもりではなかったそうです。運動用具が充実するまで…そんな思いで始めたトレーンニングは、海星の生徒達をたくましく育てました。実績を重ねる中で、海星のOBである市川敏郎先生が着任されて更に充実したプログラムとなり、他の先生方の支持も得られるようになって、全学年共通の「海星名物」として定着していきました。
「体育の道具をいっぱい買ってからも、『これは続けていこう』ってことになったんや。」
左から樋口博巳(32回生)、川村浩晏先生、水谷一郎(32回生)。
そんな、海星OB共通の思い出「トレーニング」ですが、実は、やらされたスクワットの回数には、世代によって多寡があるようです。
「五百回やったよ、はじめは。その後、増えていった。一時的に『一年五百回。二年八百回、三年千回とかで、試しにやってみよか』っちゅう時があったわけやね。『千回しろ』とかじゃなくて、『できたら満点』っていう。なんていうか、盛り上がる学年ってあるやんか。そうするとクラスのうち8割がたが五百回やってしまうわけや。五百回で満点やったら、クラスのうち8割方が満点。そうすっと成績のつけようがないやろ。そんなんからや。」
生徒のレベルが上がって、スクワットの回数が増えていったのですね。確かに、大人数で大声を出して取り組むトレーニングは、生徒たちのテンションを高め、体育館が一種異様な空気に満たされる、そんなことはしばしばありました。
「『五百回を3回できたらソフトボール』とか、そういうルールを作ったんや。それが定着して、生徒たちも『海星来たら、これせんならんのや』って。そういう気持ちでやっとったと思う。初めのうちは『なんでこんなん?!』ていうのが多かったと思うけど、先輩なんかから聞いたりしとるうちに浸透してったんかな。」
そもそもトレーニングの1種目に過ぎないスクワットも、千回やろうとすると、長い時間がかかる。そのため、準備運動は授業が始まるまでに済ませておくのが通例になった。
「千回になるとね、チャイムからチャイムまで全部スクワットなんやわ(笑)。」
しかし、そのおかげで海星の生徒はもれなく逞しい筋力と体力を身につけました。卒業後にスクワットの話題で他校出身者に驚かれるという経験も多くの卒業生に共通の「あるある話」じゃないでしょうか。
「うちの息子も海星やったんやわ。大学行ってクラブの時に、他の学生が『みんなスクワット百回やれ』て言うて。できやんかったやつが多かったわけ。ところが、うちの息子は五百回やってケロッとしとって。それからみんなに一目置かれるようになったって。海星の卒業生からはそういう話をよく聞く。」
クラスも学年も入り混じった数百人の男子生徒が、独特のリズムに合わせて大声を上げながら、苦痛に耐える。世代を超えた海星OB共通の「懐かしい思い出」であるトレーニングも、今は少し軽めのメニューになっているようです。
「あれって、金かからんし、協調性も生まれるし、忍耐力も生まれるし、いい体験になると思うよ。でも今はあんなことできやんわな…。」
そうおっしゃる川村先生は少し寂しそうです。
海星の体育で、昔と今とで違う話題といえば「プール」の話題があります。北校舎の建設に伴って、それまであったプールは取り壊されました。その後、再建の話もありましたが、現在に至るまで、海星にプールはありません。水泳はカリキュラム上必須ではなく、また建設や維持にかかるコストが高いことが理由のようです。
「25メートルのプール。もともと海軍のプールでけっこう深くて、深さが3メートル以上あったね。深いから、それを生かして遊んどったな。『プールの底に寝てニタッと笑え。できたら5円やる』とか言うて。そうするとさ、生徒はみんな息を吸い込んで潜っていくんよ。でも浮いてくるからできへんわけ。息を全部吐き出さないと底には寝られない。彼らはそれ知らんわけや。で、俺がやって見せて底に寝転んでニターッと笑ってさ。」
若い川村先生と生徒たちがプールで楽しむ様子。目に浮かぶようです。
「当時、海星の隣りに東亜紡の女子寮があって。彼女らは仕事が3交代だったのね。プールは女子寮のすぐ下にあったから、水泳の授業があると、窓から覗いて冷やかしとったわ。『すてきー』とか『きゃー』とか言うて。」
女子生徒のいない海星の男子たちにとっては、少々刺激的だったかもしれません。
「学校で合宿するやん。泊まるのは柔道場で。柔道場の北が東亜紡の空き地になっとって、合宿やる頃、そこで盆踊りやっとったんさ。女工さんばっかりで。そうすると、あっちとこっちでやりとりするわな。それが校長に見つかってえらい怒られたことあるわ。」
当時から、いろいろなクラブが学校で合宿をしていました。
「あの頃はね、俺がトレーニングの「絞り役」。いろんなクラブの合宿請負人みたいになってさ、新しいクラブができたら、それも一緒に引き受けて。」
日体大出身の川村先生にとっては、運動部が合宿をするのは当たり前のこと。そんな合宿の文化を海星に定着させたのも川村先生でした。
「ひどい時はね、久居の自衛隊で合宿しとった。あそこ安いんやに(笑)。アイスクリームもそこらの3分の1くらいの値段で、量が倍くらい。隊員のやつやで多いの。その代わり規律は厳しくて。夜中もライフル持った隊員が立っとるしな。でも海星の生徒はそのへんは慣れてんのや。「駆け足できるか」って言われて「やりますー」ってきちっと並んで駆け足やって見せて。「うちの新人隊員よりようできるなぁ」って感心しとったよ。」
合宿といえば、海星には「志賀高原学年合宿」がありました。当初は鈴鹿のスポーツセンターを会場にスタートし、その後、中村先生と、着任間もない市川先生とともに3日ほどかけて長野県全域を下見し、志賀高原に決定したそうです。
「最初の頃は高速道路がなかったから『夜発ち』やった。学校へ集合したのが夜7時ぐらいで、いろんな話したり、なんやら検査なんかして、出て行くのが10時過ぎやったかな。で、朝5時頃に着いて、白根山の頂上で夜明けになって、あの噴火口の前でメシ食ったやろ。それから一服してホテル入ったんや。高速ができてからは『朝発ち』になった。着いたらそのままホテル入ってで昼ごはんやわ。」
世代によっては、そうしたディテールの記憶は違っているかもしれない。しかし、長時間にわたるハイキングの記憶は幅広い世代に共通する思い出ではないでしょうか。
「スクワットの数でA・B・Cの班分けをしてコースを分けた。五百回できるヤツはきっついコース、真ん中のヤツは中コース、三百回もできへんヤツはなだらかなコース、そやって分けたん。そういう感じやったな。事故が起きたらあかんもんで。25キロくらい歩くやんか1日で。」
学校行事であるから、事故は許されません。安全第一で実施するため、先生方は入念に下見を繰り返したそうです。そうしたハイキングコースの中には、既存のものだけでなく海星の先生方が開発したものもいくつかあり、それらは現在も多くの人々に利用されているそうです。
「合宿を繰り返していくうちに、コースが増えて、7つか8つあった。合宿って3日あったやんか。1日かけて歩く長いコースは3班分、3本あればええけども、半日用の短いコースは5つ6つ要るわけよ。だからそんなんも全部開発したん。約何時間コースで、難度はA・B・Cでって。地元の組合の人らも『教えてくれ』って言うてきて。『ここのこの尾根の道をもうちょっとちゃんと作って、道標を立てて』って、コース作りに貢献したんやに。」
志賀高原の合宿は、自然について学ぶプログラムも組み込んだ総合的な内容でした。今でこそ全国各地で多くの学校が同様の行事を行っていますが、海星が始めた頃は、全国的にも稀で、まだまだ先進的な取り組みだったようです。
「日本中でもあんなことやってる学校って無かったんやに。体育科の研究発表会があって、俺が発表したら反響があって。ものすごい問い合わせがあったよ。」
志賀高原で実施されていた学習合宿の定宿は「志賀レークホテル」。合宿の開始当初から、変わることなく利用し続けていました。
「あそこは冬場はみんなスキーに行って、客がどんどん来るんやけど、夏場はとんと客が無かったんやわね。だから、僕らが始めたような合宿で使うのは、すごく喜ばれた。そうやって使えることをあちこちに宣伝していって、それからものすごい流行りだして。」
レークホテルと海星とは密接な信頼関係、協力関係ができていきました。
「合宿で集団で使おうと思ったら、1学年全員が同時に食事できて、2時間以内に全員が風呂に入れるっていう条件が必要やんか。最初はそれができなかったんや。食事も、レストランで食べたクラスと、温泉旅館まがいの大広間で食べたクラスとに分かれとった。で、その後、レストランを拡張して四百人がいっぺんに食べられるようになった。大広間は全部風呂に変えてしもて、3回か4回で全員入れるようになった。体育館みたいなんもあって、ステージもあってさ。雨が降ってもOKみたいな。いろんなことができるようになった。実際に、雨が降ってファイヤーストームができやんで、そこでアトラクションやったこともある。」
ファイヤーストームも、志賀高の合宿の目玉企画の一つでした。クラスごとに趣向を凝らすアトラクションでは、生徒たちが学校の日常生活では見せない表情を見せたといいます。
「学校で変な目で見られとる連中が、合宿先で意外とのびのびしとったんや。普段叱られてばっかりおるやつがさ、自分らの力が発揮できる場を見つけて、合宿では率先して何やかんや先頭に立ってくれたりしてね。たまたま班長になったらまとめるのが上手やったりとかさ。ああいう場へ行くといろんなこと発見できる。」
そういう、いわゆる「やんちゃ」な生徒たちにも川村先生は慕われていた気がします。
「横道に逸れて行きそうなヤツもおれば、家庭環境の悪い生徒もおる。でも、そいつらも同じように扱っていって、みんな同じように順調に行ってもらいたいもんな。」
そんな愛情が、生徒たちとの関わりの端々に表れていたからこそ、多くの生徒に慕われていたのでしょう。川村先生は、生徒一人一人と深い人間関係を結ぶことを通じて、信頼関係を作り上げていました。
「普段から生徒との信頼関係っちゅうのが多少できてれば、何かあっても話をすれば通じるやんか。それを信じるしかないと思うんやわ。『押さえさえつけよう』とかやなくて。そこらへんが教師に向いてる人と向いてない人との分かれ道やろね。だって10人生徒おったら10人みんな違うもんな。十人十色やから。」
川村先生はカトリックの信者ではありません。しかし、目の前の生徒を、人として無条件に愛する。そのことから人間関係を構築し、生徒の成長を支えていくというスタンスは、まさにカトリックの精神を体現したものであったと言えるでしょう。
お元気な川村先生。
海星に勤めて44年。時は流れ、日本の社会も変化していきました。若者たちをめぐる状況、学校を取り巻く環境にも大きな変化があったと思います。
「海星は私学やから、ある程度独自のやり方が許された。自由な裁量が許された。だけど、ちょうど定年になる10年くらい前からやりにくい部分が出てきたよね。『ちょっと気をつけなあかん』とか。あちあこちで裁判沙汰とか出てきてたやん。柔道の授業でも、最近は準備運動に授業時間の半分くらいをかける。柔道そのものをやるというよりも、護身術みたいなことを学ばせる感じ。ブリッジで首を鍛えたり、アゴ引いて受け身を取る練習をする。で、1限終わる時に生徒みんなをこちらに向かせて、『調子が悪いやついないか、気持ちが悪いやついないか、身体傷めたやついないか』って全部確認取んのやに。全員の前で確認を取っておけば、何かの時にもええわけやんか。」
世知辛い世の中になりました。
川村先生にとって「海星」というのはどういう存在なのでしょうか。
「一言で言うのは難しいけど、まあ『自分が生きてきた証』みたいなところがあるね。せっかく私学へ来た。男子校へ来た。転勤がないわけやから、ひょっとしたら定年までここにおるかもしれん。就職したときそう思った。それから、10年スパンで何か新しいことを植え付けてやろう、みたいなことを考えとったね。」
そんな思いから、授業にトレーニングを取り入れました。志賀高原の合宿もスタートしました。生徒指導部長の時には、丸刈りの強制を廃止しました。
しかし、何かの罰として「丸刈り」を課していた当時のやり方には今も肯定的な思いを持ってもいらっしゃいます。
「何て言うのかな、『しゃあないなぁ』ってポンて気持ちを切り替えることも人生大事やんか。例えば仕事始めたらさ、自分の思てることと反対のことを無理やりさせられること、多いもんな。そんな時、「わかった。今回はしゃあない」って、気持ちをパンッって切り替えていくっていうね、そういうことに通じるところもあったと思うんよ。」
現場を愛していた川村先生だが、一九九二年からは教頭、副校長として管理職を務めることになった。
「管理職っちゅうのは合う人間と合わん人間とおるから。俺はどっちかっていうと現場の方がええ人間。生徒と接してる方がええよね、やっぱり。」
それでも気持ちを切り替えて、管理職を務められたのだと思います。
「まず現場から離れることが多いから、全然性に合わんかった。でも当時海星は管理職もみんな授業持っとったん。たとえ数時間でも。授業行くのは楽しかったよ。朝から晩まで書類ばっかり見てさ。ハンコついてさ。そういうことがずーっと続いて嫌やったから、授業は楽しかった。」
退職した今も、テニスや卓球で汗を流していらっしゃいます。体を動かすという意味では家庭菜園も役に立っているかもしれません。
そんな川村先生の今の一番の趣味はギター。地元で「四郷ギターサークル」を立ち上げ、現在も代表をつとめていらっしゃいます。練習はおよそ週1回。自ら演奏するだけでなく、合奏の指揮者としてタクトを振ることもあります。
「定期的に演奏したり、慰問活動したり。Youtubeにも30曲くらい動画を上げてあるよ。」
しかし、失礼ながら海星時代の川村先生にギタリストのイメージは無い。ギターを始めたきっかけは、何だったろうか。
「ギターは大学の寮におった頃から。日体大の寮生活ってさ、しごきの毎日で寂しいやん。家帰りたいやん。逃げ出したいわさ。で、寮にギターが2、3本あってさ、ギターの巧い先輩がおって,ちょろーんちょろーんて弾いてくれるのが良くてさ。で、自分も弾いてみよかって思って、弾き始めた。そやけど卒業してからはほとんど弾かへんかったわな。たまたま定年になる直前に、市のセンターでギターの無料講座っていうのがあって、回覧板が回ってきて。家内が勝手に申し込んだん。『あんた定年なったらすることないで』って。」
意外にも(失礼!)、ギターのキャリアは長かったんですね。しかし、奥様のお膳立てに素直に乗っかるなんて、川村先生、ちょっと可愛いところもありますね(失礼!)。
「ところが、行ってみたらアコースティックやったんな。俺がやってたんはクラシックギターやったから…。でも2年ぐらい我慢しとってさ。で、その講座が終わってからサークルを作ってくれって言われて。」
サークルの仲間にも面倒見の良さとリーダーシップを見込まれたのでしょうね。
「で、俺はクラシックがやりたい。『やりたい人はこの指とまれ』って。それが16年前で、それからずっとやってる。だから弾いてる人の平均年齢は70歳。」
現在は、クラシックだけでなく洋楽ポップスなども取り入れ、レパートリーは数十曲に上るのだそう。ソロ曲もあればアンサンブル曲もあって、いろいろなスタイルでギターを楽しめるそうです。
「毎年、ギターコンサートin四日市って演奏会が文化会館であって、それに私たちも毎年出とるの。今年は3月にあったんやけど、演奏し終わったらさ、ステージの下へダーッて走ってくるやつがおってさ。「先生、先生、先生!」って握手しに来たんやわ。よう見たら一番最初に授業を持った、吹奏楽部の生徒やった。演奏会の帰りがけ、ずっと入口におってさ「入れてくれ」って。で、4月に入ってくれた。」
そう話してくださる川村先生は朗らかな笑顔で、誇らしげでもありました。そうやって卒業生が気軽に声をかけてくれることは、先生にとっても幸せなことに違いありません。いくつになっても恩師を「先生」と敬愛して付き合える幸せ。いつまでも「海星の生徒」でいられる幸せ。それは海星が長年にわたって培ってきた校風によるところが大きいと思います。
「海星に来た子が海星を卒業して良かったなぁって思ってくれたら一番嬉しい。あんなとこ行かんときゃよかったって思う子が多かったら寂しいから。そのためには公立にはない良さがないとあかんわな。海星の良さを無くさんようにせんと。」
目の前の生徒に正面から向き合い、愛を持って接する。学校を愛し、より良くする努力を怠らない。それが川村先生の海星での44年であったのだと思います。海星を愛してやまない我々卒業生が感じている海星の良さの源は、まさに、川村先生が大切にしてこられたこと、そのものなのではないでしょうか。