恩師をたずねて

仰げば尊し我が師の恩。お世話になったあの先生は今どこでどうしていらっしゃるんだろう…。
そんな思いを行動に!引退された恩師を訪ねて近況をうかがう好評の企画。

今回お目にかかったのは、穏やかな物腰が印象深い『倉田純夫先生』です。
 空は梅雨空を思わせるどんよりとした鉛色。小雨も時折ぱらつく中、伊勢道を走って向かったのは倉田純夫先生のお住まいがある伊勢市。伊勢志摩サミット閉幕直後の時期でしたが、伊勢の町はものものしさの余波など全く感じさせない、いつもどおりの穏やかな神都でした。

 外宮にほど近い閑静な住宅街。緑豊かな丘を望む川の側に倉田先生のお住まいはありました。
「こんにちは。ご無沙汰してます。」
 通していただいたのは中2階にある応接間。大きなスピーカーが目を引きます。ソファに腰掛けさせていただくと、さっそく倉田先生が1枚の紙を手渡してくださいました。紙には先生の退職後の様子が丁寧にまとめて記されていました。取材の趣旨を踏まえて事前に用意してくださったのでした。
 「現職の頃から数学科の村山君とよくゴルフをやっとって、退職してからも『どうや海星は?』っていろいろ聞いたりして。」
 真っ先に語ってくださったのは、趣味のゴルフのお話でした。村山先生とご一緒されるのは年間10数ラウンドとおっしゃいますから、月1回以上のペースです。ゴルフを「接待」のツールとして嗜む方も多いですが、教育業界に「接待」は無縁のはず。先生方は純粋にスポーツとして楽しんでいらっしゃるのでしょう。
 スコアはたいてい110台。「一回だけ100切った。芸濃ゴルフクラブで98。」楽しげに話されます。
 「5、6年前からちょっと調子が良くなってきて。フェアウェイウッドが当たるようになって、飛ぶようになってきた。人より飛ばんのやけど。なんとかギリギリでオンができるようになってきたら98になって。」

  パートナーである村山先生もこの春定年定年退職されました。さっそくお誘いの電話がかかってきたそうですが、残念ながら膝に痛みがあるために断らざるを得なかったそうです。もう3か月ほどもご無沙汰なんだとか。
「村山君が退職して、これからしょっちゅう行けるてなったら膝が。はじめは右膝だけやったけど、最近ちょっと左も痛む。それがちょっとつらいっていうか寂しい。」

 倉田先生が退職されたのは2006年の3月でした。海星では、秋頃に校長室に呼ばれ、退職するか講師として学校に残るか、希望を聞かれるのが通例だそうです。
「僕は前々から家族にも周りの同僚にも大きな声で言うとったんやけど、定年で退職するつもりでおったんさ。伊勢から通うのも遠いし、電車代も学校にようけ払てもろとるし。若い立派な先生が入ってくるのに俺みたいなもんが長いことおったら…と思てね。」
 恩師が学校からいなくなるのは寂しいものです。1日も長く続けてもらいたいというのが教え子の素直な気持ちではありますが…。
「まあ本音は『さあこれから遊びたおそう』ということがあったもんで(笑)。人生いつ死ぬかわからんけども、もう残りは好きなことして、好きなようにやらしてもらいますっちゅうような形でさ。一応大学出てから38年間、基本的にはフルに勤めさせてもらったもんで、めでたく退職ということになったんさ。」
 とはいえ、元気な体で毎日がフリーとなったら、よほど多彩な趣味でも無ければ退屈しそうである。退職を耳にした用務員の中野清子さんにも「そんなん半年もしたら、もう退屈してえらいことになるよ」と冷やかされたらしい。
「特に他人様に言えるような趣味は何もないんやけど、実際退屈もせずに回ってくもんで、2年後くらいの年賀状に『1週間7日では足らんので、1週間を10日ぐらい欲しいんやけど』ってなことをキザに書いてさ(笑)。」
 「他人様に言えない」趣味の1つが退職直前に始めた「パソコン」なのだそう。
「職員室の皆さんが学年新聞とかをパソコンで作ったりしてるのを見てたから『やらな』とは思とったんやけど、もう先(停年退職)が見えとったしさ。自分がやるしかないならともかく、若手がやっとんのやで自分はもうええか、って。かろうじてワープロはやっとったしね。」
 いかにも控えめな倉田先生らしい。パソコンを使い始めたきっかけは何だったんだろうか。
「たまたまうちの近所にパソコン教室ができてさ。そのおかげでていうか、まあもともと気になっとたんやし、いろいろ面白そうやで、ボケ防止のために通うわっちゅうんで。」  先生はさらりとおっしゃいますが、通い始めてもう11年目になるとのこと。学ぶ内容はワードやエクセルなど基本的なソフトの操作が中心で、画像処理を伴うちょっとした編集作業などもされるそうです。高校時代や大学時代の同窓会の資料作りも一手に引き受けていらっしゃるのだそうです。資料のファイルを見せていただきましたが、準備段階の打ち合わせから会計報告や写真の配布まで、その一切が全てきっちりとまとめられていました。さすが歴史の先生!という感じです。
「老人のお遊びだから、それ以上のことは…。教室の先生には検定を受けたらどうですかって言われるけど、ダメダメ。試験は作って生徒にやらせとったけど、今さら自分が『よーいどん』で『何点です』なんて言われたくないから、受けない。『遊びですから』『ボケ防止なんで』ってそれは拒否してさ。のーんびりやってるんで、腕は別に上がらんのやけどね。まあそんな形でね。」
 必要以上にがむしゃらにならないスタンスが、長続きの秘訣なのかもしれない。
応接間でお話しをうかがいました。雨上がりの庭の緑が鮮やかでした。 応接間でお話しをうかがいました。雨上がりの庭の緑が鮮やかでした。
 そんな倉田先生が、在職中から密かに計画していたことの一つが「トワイライトエクスプレス」に乗車する豪華寝台列車の旅でした。
「『トワイライト』は大阪を昼頃出て、日本海側を回って翌朝の午前九時ぐらいに札幌に着く寝台列車。日本海側の夕陽を見ながらフランス料理のディナーをいただいて、という豪華寝台列車の旅ね。その一番最後尾の車両の最後尾の1室がスイートでツインベッドで、窓は三方開きで。まあ形だけやけどシャワールームも付いてるっちゅうのね。」
 本で目にして以来、退職後の楽しみとして夢見ていらしゃったのだそうです。もちろん料金もそれなりに高額でしたが、奥様への御礼という意味も込めて迷わず注文したそうです。
「すぐにJTBに連絡取って、ぜひスイートの1号1番、1番後ろの部屋を取ってくれ、と。」
 聞けば最後尾の一室に乗る乗車券は「夢のプラチナ・チケット」らしく、自分の希望する日を予約しようなんてことは不可能だったのだそうな。
「我々みたいな一般人はいわゆるキャンセル待ちでしか取れやん。国会議員やらそんな一流の人ら自分が行きもせんのにバーッと押さえるから、我々一般人は取れない。キャンセル待ちして、取れたらいつでも行く、というふうでないと。だから現職では無理や。」
 もちろん料金はそれなりに高額ですが、「家内への御礼」という意味も込めて迷わず予約したそうです。 「京都から乗ったんさ。京都駅の表から入った0番線。僕はもうワクワクワクワクして。退職したし、仕事はせんでええし、好きなことができるし、長年の念願であったトワイライトで家内と北海道へ渡る…って。ビデオカメラ構えてさ(笑)。」
 先生ご自身が撮影されたビデオも拝見しましたが、画面からは旅の高揚感がひしひしと感じられました。
「食堂車で夕陽を見ながらのディナーも、天気はちょうど晴れで。僕は晴れ男なんさ(笑)。」
 太平洋側を走り「トワイライト」と同じく廃止された「カシオペア」にも乗りたかった、と先生は悔やんでおいででしたが、JR九州「ななつ星」のヒット以来、高級寝台列車の旅が再び脚光を浴びているのはご承知の通りです。倉田先生にもぜひ楽しんでいただきたいですね。

 列車の旅に限りませんが、日々を存分に楽しむには健康が何より大切です。久しぶりにお目にかかった倉田先生は、以前に比べてスマートになられ、健康的なご様子でした。ところが話を聞いてみると、実は退職間もない時期に大病をされ、それを機に健康を気遣うようになられたのだといいます。事件は退職した年の6月に起こりました。
「遊びたおそうっていうんで小津先生と村山君と亀山のライオンズゴルフ倶楽部へ行って朝から回っとったんやけど、なんかノドが乾くし、体がめっちゃだるてさ。暑かったし、お茶飲みたおしたけどおかしくて。『熱中症かわからんで、僕もう半分でやめるわ』って、ヨタヨタしながら車に乗って伊勢道走って家帰ってきて、『日射病になったかわからん』って寝とったん。」
 その後も症状は改善せず、会話をしてもぐったりしてしまうほどの倦怠感が一週間続いたそうだ。さすがに心配した奥様から促され、先生は車で市民病院に向かい、診察を受けました。
「血糖値が560。普通は食前食後で100前後、ちょっと高い人になってくると食後で150とかね。そういう数字なんさ。で、医者が『ようこんなんで車で来れたな』て。」
 もちろん即日入院が決まりました。退職後の毎日を満喫しようと思っていた矢先のできごとです。
「何にも食べられんやん。甘いもん一切ダメ。えっ? て感じ。喫茶店が好きで、コーヒー飲みに行っては砂糖いっぱい入れて飲むのに…。」
 ショックは大きかったようです。
「『なんやこれ、なんのために退職したんや』って。オーバーに言うたら『もう俺の人生終わったかな』って思った。」
 美味しいもの、甘い物を食べることが大好きな倉田先生にとっては、特に厳しい宣告でした。いつも通る自販機の前も、自販機が目に入らぬよう横向いて通ったとおっしゃいます。学校で受ける毎年の健康診断でも減量を促されてはいたそうですが、具体的な病気の危険性は指摘されず、再検査で引っかかることもなかったそうです。そこそこの年齢になればたいていの人が「ちょっと痩せましょう」ぐらいのことは言われるもの。あまり危機感は感じていらっしゃらなかったようです。
「でも思えば退職前から糖尿病予備軍やったんやね。もともと甘い物が好きで、ストレスも抱えて、食事はちょっと不規則やし、その当時はウエストも最高で九六ぐらいまでいってたし。今はギリギリ88。一番痩せた時で84くらいやったんやけどね。」
 入院してからは食べる物にも気をつけ、健康的な生活を送っていらっしゃるそうです。
「まあ根がちょっとばかし真面目なところもありまして。恐がりやもんで。もう何でも医者の言われたとおりに。」
 体を動かすことも、それまで以上に心がけるようになったそうです。
「糖尿の先輩から、『食後20〜30分くらい軽く散歩するといいですよ』って聞いた途端に、5階建ての病院の1階から五階まで朝昼晩食後歩きたおしたんさ。」
 アドバイスの効果はてきめんで、血糖値もみるみる下がっていったそうです。ほどなくしてインスリン注射も薬の服用も必要なくなりました。
「ヘモグロビンA1cちゅうのが12あったんさ。正常な人やと5.0くらい。糖尿患者っていうと6.7とか8.0とか。僕が入院した時、それが12。よう分からん人でもびっくりするやろ。10、9、8、7て下がっていって、発症してから半年くらいで5.2くらいまでヘモグロビンが下がったもんで。そういう意味ではもう正常かな、と。」
 食生活もさほど気にしなくてよくなったとのこと。
「鳥羽国(際ホテル)とか志摩観(光ホテル)のラウンジで、きれいな景色見ながら美味しいケーキを食べる。そらもう20年以上昔から、子どもが生まれた頃から通とるけどさ。日曜とかさ、ドライブして。お金無いけど。もちろん元気な頃やったら1人1個ずつ食べてた。ダウンしてからは2人で1個頼んで半分こ。」
 そんなふうな節制をしていれば大丈夫だそうです。それにしても、失礼ながらたとえ話が可愛らしい。大好きな喫茶店でも、砂糖をいっぱい入れてコーヒーを飲むのがお好きだったそうです。
 階段を「歩きたおし」て以来、トレーニングの喜びにも目覚められたようで、ジムにも通っていらっしゃるといいます。
「昔からムキムキマンに憧れてて。長いこと中年太りやったけど、もともと昔は痩せとったからね。サンアリーナで県がやっとるトレーニング・ジム。2時間350円。今は膝が悪くなって行ってませんけど、つい最近まで週2、3回トレーニング行っとった。30分を2回歩いて、それから自転車を15分くらい2回漕いで、あとちょっと軽い筋トレとかね。あのーゴルフで距離が出やんもんで、何とかちょっとでも他人に追いつくために、飛ばすために筋力トレーニングなんかをやっとったんすけどな。」

書斎にて。旅行の写真など拝見しました。 書斎にて。旅行の写真など拝見しました。
 ところで、伊勢にお住まいの倉田先生が、遠く離れた四日市の海星高校で教員になられたのには、どんな経緯があったのでしょうか。
「大変な仕事やってよう知っとったからさ。積極的に教員になりたいとは思わんかった。」
聞けばご両親とも教員をしていらっしゃったとのこと。
母親は当時の女性やから家帰ったら家事の仕事もせんならんやん。家事の合間に採点しとった。」
 遊びたい盛りの幼少期も、遊びにはあまり付き合ってもらえなかったそうです。お母様に遊んでもらった記憶はほとんど無いとおっしゃいます。
「学校へ行く母親の自転車にへばりついてさ『行かんといて』って泣いたん覚えとるもん。」
 戦後間もない昭和20年代。日々の暮らしに奔走し、子どもと一緒に遊ぶ時間を持てなかったのは倉田家に限ったことではなかったかもしれません。
「夏休みの日直やと学校へ連れてってもろたんも記憶ある。職員室ガランとしとるやろ。そこで遊んどった。」
 忙しい毎日の中でも、子どもと過ごす時間を増やしたい。お母様にはそんな思いがあったのかもしれません。休日の職員室で母親と過ごした幼少期の甘い記憶が、教員の道に進む若き日の倉田先生の背中を押したことは間違いないでしょう。
「父親は僕の性格を見て教員を勧めとった。『華々しいことのできる男やない。学校で生徒相手に威張っとるぐらいが関の山やろ』て。」
 体を壊して早くから教職を離れたというお父様にとって、息子を教職にという思いは人一倍強かったのかもしれません。
「ほんとはカメラマンとか好きやったから、もともとそういうの目指しとってん。」
 教員と写真家、倉田青年はその2つ選択肢の間で揺れ動いていたそうです。
「中途半端やったんね。親に反対されてでも家飛び出してやりゃ良かったんやけど、そこまでの勇気はなかったし。」
 進む道を決めきれず、聴講生として大学に残るという第3の選択肢を検討し始めた倉田先生のもとへ、大学の就職課から電話かかってきました。それが、海星高校の求人募集についての紹介だったのです。
「野球が強い、キリスト教の学校やなって、まあその程度の認識やったね。」
 話を聞いたご両親は大いに喜ばれたそうです。
「そんな話があんのやったら行け。行くだけ行って受けてこい」て。
 電車とバスを乗り継いで海星にたどり着きました。伊勢から海星への長距離通勤。その第一歩がこの日始まったのでした。
「校長が外国人やん。スペイン人やん。リベさんや。日本語ぺらぺらやん、『なんやこの人すごい人やな』って。」
 遠距離通勤に不安はあったそうですが、「先のことは分からない」と楽天的に就職を決めたそうです。
 ちなみに妹さんも教員になられたそうです。
「某予備校の英語の講師。中高ぐらいまでは僕の方が英語できたのに、大学出た頃にはあっちはぺらぺらでこっちは何も喋れへん。」
 倉田家はまさに教員一家だったのですね。
 就職間もない倉田先生は中学のクラスの授業を担当することが多かったそうです。採用時の面接でも、その旨を伝えられていたそうです。倉田先生が就職した昭和43年は、海星が6年一貫教育を始める4年前のこと。中学課程の充実に力を入れ始めた時期だったのかもしれません。
「最初に配属されたときは各学年1クラス。中野清。あれが僕の第1回目の担任。第2回目が玉木、細田。」
 その頃の中学生がその後海星の教員となり、既に管理職になったり定年退職したりという歳になっていらっしゃるわけですから、歴史を感じます。
 「入ってすぐ2、3年は高校の授業を全然持ってなくて。自分のクラスの授業だけってわけにはいかんから、中学3学年の社会を全部担当して13、4コマ。他の先生方はみんな平均18、9コマ持ってるんやけど、1番年下やし、手間のかかる中学の担任しとるからって気ぃつこてもろて。でも青木先生なんかには「倉田君、給料泥棒や」って言われて、「高校の自習監督行ってくれ」って(笑)。」
 就職前は遠距離通勤を心配していましたが、就職してみれば他にも伊勢から通勤していらっしゃる先生が見えました。小津清貴先生です。
 「当時伊勢で独身で。たまに『倉田先生、明日土曜日やし車で行くけど一緒に行く?』て声かけてくれて。二人で一緒に小津さんのいすゞベレットていう車に乗って、朝23号線飛ばして。」
 鈴木紀生先生や船越先生も仲が良かったようです。
「同学年でね、まあ出身校は全然ちゃうけども、同い年っちゅうことで仲が良くて。よく帰りに鈴木紀生先生に車で白子まで送ってもらっとったもんで、船越先生に『くらっちゃんもどうだい』って誘われて3人でよく喫茶店に寄ってコーヒーを飲んだ。」
 そうなると自然と「滞在時間」は長くなり、伊勢まで帰らねばならない倉田先生にとっては負担になることもあったようですが、誘われればたいてい一緒にコーヒータイムを楽しんでおられたそうです。
ゆっくりと歩きながら… ゆっくりと歩きながら…
「5、6年前に突然船越先生から電話がかかってきて、『伊勢の注連飾りを買いたいんだけども』って。」
 伊勢志摩には1年を通じて注連飾りをする習慣があります。伝説に基いて「蘇民将来子孫家門」などと書かれた木札が付いた独特な注連飾りは、よその地域では見られないもの。船越先生はそれをお求めだったのですね。 「久しぶりやから伊勢も案内させてもらいますっちゅうて。それからちょくちょく。」
ときには奥様同伴で伊勢志摩の各地をご案内したそうです。
 最近は社会科のベテラン先生方を中心とした6人の先生方をご案内したそうです。
「『伊勢志摩へ行きますでお目にかかれませんか』って言うてくれるから『俺のテリトリーやん。声かけてもらわな困るやん』って言うて待ち合わせて」
 散策したり食事をしたりして楽しく過ごす間、倉田先生はやはりずっとビデオを回していたそうでDVDを手紙添えて全員に送った。家内は『ありがた迷惑や』て笑っとった。『こんなもん』て思う人もおるかもしれんけど、悪いことしとるわけやないで、まあええやないかって。それが趣味。2階の部屋で楽しくやってますわ。」
 写真やビデオを撮って、人を喜ばせたい。倉田先生のそんな思いは、写真家を志した若い頃からずっと続くものなのでしょう。そもそも、写真家を志したきっかけは何だったのでしょうか。
「小学校1、2年くらいの時に商店街のカメラ屋覗きこんで『こんなカメラええな』っ思っとったん。そしたら母親が『買ったろか』って。当時500円、今で言うたら5、6,000円くらいかな。」
 もともとお父様がカメラや時計やオーディオなどの趣味に凝っていらしたそうですので、その影響で「自分も」と思われたのでしょうか。そんな子どもの興味に安くない投資を厭わなかったお母様も、そうした趣味に理解を示しておられたのでしょう。
「遠足に持ってって、友だちが川でシッコしとるところ芸術家気取りで写真撮って(笑)。残っとるもん自分のアルバムに。それが小学校2年生くらいね。」
 高校時代には写真部に入り、写真雑誌を買って勉強したりもしていたそうです。
「土門拳とかが撮る仏像の写真とか、そんなん見て面白いな写真家目指そうかなって。」
 大学進学にあたっては東京の芸術系大学へ進むことも検討したといいます。
、報道とか雑誌の仕事なんかやっとったかな。自分の人生どんなふうに変わっとったやろな。」
 結局、倉田先生は写真家への道は進まず、地元に残って教員になる道を選びました。
「みんな出ていったけど僕はずっと地元。友だちなんか東京行ったりするの送り出して。」
 多くの人が地元の暮らしを捨て、東京へ出ていきました。夢を追って東京へ出た友だちは夢を叶えられたのでしょうか。夢を叶えた人生は幸せなものになっているでしょうか。三重に残って暮らす倉田先生は幸せそうに見えます。
「もとは亀山で借家に住んどった。母親が西小学校に勤めとって、息子が同じ学校ちゅうのもイヤやっちゅうんで僕は三重大付属の亀山小学校。今の東小学校。そこに小学校5年までおって6年の時から伊勢の地に。」
 ご両親が家を建てることになったものの、亀山はもともと倉田家にとって縁のない土地。さてどこに建てようかと迷っているところへ、伊勢へ嫁いでいた叔母さんから誘いの声がかかったのが、伊勢に転居したきっかけだそうです。今お住まいの土地にご両親が家を建て、家族4人で暮らすことになりました。その後、中学、高校、大学と伊勢の地で過ごし、海星高校に就職。奥様も伊勢で見つけ、29歳で結婚されました。
「結婚して、どこに住むやろちゅうことになって…。四日市は公害があったからね。で、当時はまだ平屋やったんやけど、親と同居するちゅうんで2階建てにして。」
 私学ゆえ必ずしも将来への不安もあったとおっしゃいますが、転職する気にはならず、遠距離通勤を始めることになりました。
「気がついたら38年、海星にお世話になっとった。」
 その後、一男一女に恵まれました。お子さんはお二人とも独立し、伊勢を離れてお住まいだそうですが、年に何度も行き来して仲良くお過ごしとのことです。
「お泊まり会。主に5人おる孫に会いに行くっちゅうんと、『生活費』を運ぶ。そういう『仕事』(笑)。行けば子どもも孫も喜んでくれるけど、要するに孫らの『栄養補給』やんか。」
 会いに行けば必ず「待ってました」とばかり外食を奢らされる、と楽しそうに話される倉田先生。
「みんなそうやけどね、僕らぐらいの、昭和20年前後生まれのジジババっちゅうのは。親にも尽くして、子や孫にも尽くす。誰も尽くしてくれない。そういう年代なんさ。」
 奇しくもこの日は倉田先生の71歳の誕生日。娘さんやお孫さんからお祝いのメールがちゃんと届いていました。
「孫らが来たら、玄関で待ち構えとって『いらっしゃーい』って部屋入って。で、帰るまでに編集してDVD盤に焼いて。写真も入れたってさ。『持って帰れ』ちゅうの。押し付け。みんな渋々やけど(笑)。じいちゃんだけ悦に入ってさ。家内は笑っとるけど『笑うな、俺の趣味や』って。変なもの押し付けとるんとちゃうんやでええやないかと。記録に残るんやで。まあ誰も見てへんやろけど。」
 ご家族のビデオも見せていただきました。中でも一番面白かったのが、御子息の結婚披露宴のビデオ。披露宴の様子を撮影したビデオはよくありますが、「新郎の父」目線のビデオはなかなかありません。披露宴の間ずっとカメラを回していたという新郎の父・倉田先生。その姿は当然写っていませんでしたが、想像するだけで面白かったです。
 ビデオを見せていただいたのは倉田先生の書斎。ソファの正面に大型テレビがどーんと置いてあります。
 「ジョーシンで買えば安いんやけど、近所の家電屋で買おたらんと直してもらえんもんで、ちょっと割高のテレビをね(笑)。」
 退職直後に買った46インチのテレビから買い買えるときは、60インチを買おうとして奥さんに止められ、55インチで「妥協」したんだそう。
「映画鑑賞が好きでね。洋画のね、戦争ものの大作とかアクション映画、シュワルツェネッガーとかあんなんが出てくるやつが好きなんさ。」
 レンタルビデオを借りることはないそうで、WOWOWなどテレビで放送されるものを見るのが基本なんだとか。もちろん映画館へは頻繁に足を運ばれるそうで、おおよそ月に4本程度はご覧になるそうです。
「シネコンの会員になっておって、だいたい数回行ったら1回タダになるんさ。退職した当時は知らんだんやけど、夫婦で片方が55歳以上やったら1,000円、夫婦で2,000円て聞いたもんで。でまあ半日楽しめるやろ。それで映画館も行きたくとっとんの。」
 音楽を聴くのもお好きだそうで、応接間にあるスピーカーも就職間もない頃に大枚をはたいて買った高級品。
「アホみたいなんやけどさ、スピーカーだけ。残骸。もう繋いでないの。」
 壊れて使えなくなった今も、捨てられずに置いてあるのだそうです。若い頃に思い入れたっぷりで買った高級品。捨てられない気持ちは良く分かります。
「今は自分の部屋でボーズのスピーカーを前と後ろと置いて演歌。恥ずかしい。」
 音楽のジャンルに貴賤はありません。聞いて心地良いものを楽しめることが1番ですよね。
「たまに名古屋まで見に行ったりもするんよ、細川たかしとか長山洋子とか千昌夫とか、中日劇場とか来たときに。細川たかしの1回目なんかプレミア席やったんやけど、1番前やもんで首こんなん(見上げる姿勢)でさ。こんな席良ぉないなって。」
 名古屋へ年に数回「気晴らし」に行かれるそうです。ゴルフ用品などの買い物をしたり、奥さんやお孫さんとお食事をしたり、映画を見たり、宝くじを買ったり。
「名古屋市内はあんまり車で走りたくないし、駐車場がね、なんか分からへんやん。」
 それでも実は車が大好きな倉田先生。お茶目な楽しみもあります。
「ミッドランド(スクエア)の1階に車が展示してあるもんで、レクサスなんか乗りに行くんやわ。買えやんもんでさ。試乗で。家内に『ちょっとレクサス見てくるわ』ちゅうて。『こんなん買えたらなぁ。買えやんしなあ』て座るだけ。
 ドライブで出かけるお気に入りは近江八幡。年に何回も「気晴らし」においでになるそうで、退職前から何十回となくお越しだそうです。
「近江牛食べたり、八幡堀のあたりで景色見たり、ロープウェイに乗ったり、川舟に乗ったり、ビデオ撮ったり。で、クラブハリエ。
 今でこそ各地に出店してメジャーな存在だが、もともとは近江八幡の小さなお店。
「できたばっかりで、まだ小っちゃな当時から、きれいな庭でコーヒー飲んで。バウムクーヘンを食べてさ。」
左から倉田先生、岡田憲享(48回生) 左から倉田先生、岡田憲享(48回生)
 在職中のできごとで印象深いことは何かと尋ねると、
「印象深いことはようけあるけど、強烈なんは無いな。それぞれの学年にこういう思い出がっていうのはあるけど…」と口を濁す倉田先生。何かを語ることは、何かを語らないことになります。たくさんの教え子に気を遣ってのことでしょう。それでも取材に訪れた岡田に配慮して、一つだけ話してくださいました。
「学年主任しとって修学旅行は大変やったね。沖縄の修学旅行というと平和学習が1つの柱になるんやけど、せっかく沖縄行くんやから海に入れやんかなと思って。」
 海星中学の修学旅行先が山陰山陽から韓国を経て沖縄に変わり、まだ間もなかった頃。
実施時期が10月であったこともあり、海水浴は行程に含まれていませんでした。もちろん海へ入ることには事故のリスクも伴います。
 まあ、ちゃんとやれば滅多なことないしね。逆に、どんなことでも完全にやったって事故は起こるし。ただ、場所が沖縄やから、車飛ばしていって下見したりできへんからね。何遍もホテルと電話で連絡取り合って、当日の監視員とか、何かあった時の救急車の手配とか、そういうのにかなり気を遣ったけどね。キザなこと言うけど、生徒にとってちょっとでも思い出になればと思ってね。」
 おかげで生徒たちにとって、沖縄の海水浴は印象深い経験となりました。実際、修学旅行後に作られた文集の中にも、多くの生徒たちがこの海水浴を「いい思い出になった」と書いています。
「いろんな意味でね、自分の人生うまいこといったなって思うこともあるのね。講師として勤めるのを断って3月に辞めたやろ。その6月に糖尿が発症したわけやん。もし勤め続けとったら、途中で休むことになってみんなに迷惑かけてた。糖尿になってショック受けて必死こいて朝昼晩歩けたんは仕事してなかったから。勤め続けとったらそうせっせとトレーニングもできやん。」

 確かにその通りかもしれません。「遊びたおそう」と楽しみにしていた退職後の出鼻をくじかれる形にはなったわけですが、勤め続けたまま発症していたらさらに状況は悪かったかもしれません。
「結果的には、糖尿もあのタイミングで発症して逆に良かったかなって。ずるずる隠れ糖尿でおったら、今ごろ手遅れになってたやろと思う。僕が70代まで生きてこられたんは、60で急に糖尿になってくれたおかげでそこから節制したから。養生したからちょっと寿命が延びたんかな、て。」
 まさに「一病息災」です。でも、倉田先生の長生きの秘訣は、そういう明るいお人柄。何事も前向きに捉える心持ちにあるのだろうと思います。
「二人の孫が水泳やっとって、地元では一番で。愛知県全体ではまだ5、6番目くらいのところやけど、かなり頑張っとって。東京オリンピックに出るのを楽しみに、そこまでは生きるわって言うてんの(笑)」
 東京オリンピックは4年後の2020年。その頃、倉田先生は75歳。きっと今以上にお元気で、お得意のビデオカメラを片手にお孫さんの応援をしていらっしゃることと思います。お孫さんの活躍はもちろん、カメラマン倉田先生の活躍も楽しみにオリンピックを待つことにしましょう!

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