恩師をたずねて

仰げば尊し我が師の恩。お世話になったあの先生は今どこでどうしていらっしゃるんだろう…。
そんな思いを行動に!引退された恩師を訪ねて近況をうかがう好評の企画。

今回お目にかかったのは,「ジン先生」こと『伊藤仁先生』です。
 今回お話をうかがったのは理科の伊藤仁先生(在職1970〜2009)。本名は「ひとし」先生でいらっしゃいますが、先生ご自身も普段から「伊藤ジン」と自称しておられ、生徒たちや先生方の多くが親愛の念を込めて「ジン先生」とお呼びしていました。
 その「仁先生」が今回の「恩師」。今回は訳あって先生が私のもとを訪ねてくださることになりました。
「海星には1970年に入ったんかな。自分も宗教系男子校の卒業生やったので、ちょっと親しみもあって。」
 現在は鈴鹿市内にお住まいの仁先生。もともとは四日市市のご出身です。1946年のお生まれで、名古屋の東海高校へ進学されました。東海高校は浄土宗系の男子校。宗教の違いこそあれ、公立高校にはない自由な雰囲気を期待していたのだそうです。
「大学に入る前から教師になろうと思っていた。物理学科卒業やで、物理の教師をと思ってやってきた。」
 私にとって人生最大の恩師が仁先生。ところが、残念なことに私は仁先生の授業を一度も受けたことがないのです。在籍したテニス部の顧問として関わってくださったのが唯一のご縁です。
「自由な空気をイメージして入ったのに、当時はリベロ神父さんのワンマン体制やったのでめっちゃストレス溜まって(笑)。テニス部で汗流して、生徒たちと話するのが楽しかった。今思えばそれが海星高校で教員を長く続けられた理由かもしれんなぁ。」
 仁先生と関わった生徒の多くが、強い信頼と親しみを感じていると思います。それは先生が自ら進んで生徒たちとの距離を縮め、心を開いて関わってくださったからこそなのだろうと思います。
 そんな幸せなテニス部時代の私の一番の思い出は尾鷲まで出かけていった夏休み中の合宿でした。
「行ったよなぁ、尾鷲。民家でお風呂もらって、体育館で寝て。汽車に乗って三木里小学校のテニスコートまで通って。刺身やらスイカやらいっぱい出してもらって…」
 ところが合宿最終日に事件が起こりました。地元の漁師の方のご厚意で沖の磯場へ出かけたのですが、たまたま大波が押し寄せ、生徒たちが海に落ちたのです。
「1人でも溺れとったら、それこそクビ(笑)。今ではもう考えられんわな。」
 確かに、ひとつ間違えば教師生命を失うような事件だったかもしれません。しかし、私たちにとってはとても良い思い出になっています。今の子どもたちが大人たちの事なかれ主義で貴重な体験から遠ざけられているとしたら、ちょっとかわいそうな気もします。
 その合宿が行われた時期の前後に、海星のテニス部はみるみる進化していきました。部活動に熱心な生徒や高い技術を持った生徒が次々に現れ、硬式テニス部の六年一貫体制も完成。間もなく、海星の選手が続々とインターハイに出場するテニス部の黄金時代がやってきました。
 しかし、そんな輝かしい状況の中で、仁先生ご自身は大きなジレンマを抱えていらっしゃったようです。
日野神社拝殿。 伊藤仁先生(左)と山下邦男(23回生)
「自分はテニスのプロじゃない。自分がプロと言えるのは物理やから、やっぱりそこで力を発揮したかった。」
 仁先生がテニスから物理へと転進するきっかけになったのは、一九七三年に第1回の文化祭が開催されたことでした。
「その時から有志で物理の展示をやり始めて、それが後の物理部の前身になった。毎回新しいテーマで実験、工作の発表、展示をして、自分がリタイアするまでずっと続けた。」
 プロだと自信を持てる物理の分野で、生徒たちとともに試行錯誤を重ねながら共に学んでいく。そんな物理部の活動は、仁先生が一番やりたかった理想の場となったのでしょう。普段の授業でも実験を充実させようと、全国の研修会で学び、実践を重ねて内容を充実、洗練していかれました。
「そういう意味では楽しい40年やったわな。やりたいことがやれた。」
 不自由さに苦しんだ若い頃と対照的に、今は「やりたいことがやれた」と振り返られます。幸せな教員生活を過ごせたという実感がおありなのでしょう。
お元気な岩間先生。 懐かしい話に花が咲いた。
 ところで、このたび仁先生が私を訪ねてくださったのには、特別な理由がありました。それは、私の経営する鉄工所で「鉄粉」を仕入れるため。実験材料として「鉄粉」がご入り用だったのです。
「小さな子どもたち向けの講座をやってサイエンスを伝えたいなぁという気持ちがめちゃめちゃ強くなって。身近な理科の先生、知り合いの会社員の人たちに声をかけてサークルを立ち上げたん。」
 今年で9年目を迎えるサークルの活動はほぼボランティア。県内外から依頼を受けて出前講座を開いていらっしゃいます。基本的には小学生を対象とした実験の講座が多いとのこと。光の性質を学ぶ「ハッピーメガネ」、空気の質量を体感する「空気砲」。愉快な教室が想像できます。
 今、仁先生が最も忙しく関わっていらっしゃるのは、桑名市の廃校を利用した「子どもアイデア楽工」。体験を重視した教育を実践するNPOの「ガッコウ」です。
「対象は2年生から6年生。ともかく学校で実験が少なくなってきているので、その実験と科学工作を経験させるという…。工作しながら、その原理を法則として実験で見る。『あ、すごい!不思議やなぁ』と思うところは高学年であろうが低学年であろうが共通してるので、どの子にとっても面白い。おかげさまで、寝ても覚めても頭ん中はそのことばかり。実験を面白くやろうと思うとやっぱりお金がかかる。大きな赤字を出したらあかん。じゃあ材料はどうやって集めたらええのかって。『鉄粉が要る』となったら『山下君に頼もう』と(笑)。」
 講座に必要な実験機材などが自宅の部屋3つを占領しているのだそうです。
「うちには親父が住んでいた家と、その南側に新しく建てた家があって。俺は『北館』の館長で、家内が『南館』の館長なんや(笑)。で、朝から晩まで北館にいて、工作や実験の準備をしてる。部屋にはテーマごとにケースにまとめた材料が天井まで積み上がってんの。寝泊まりと食事は南館にお世話になる(笑)。」
ゆっくりお話をうかがいました。 子ども向け講座の仁先生
 そんな話をしながら、先生がカバンから取り出したのは、手作りの放射線測定器。
「この間、講習会があって作った。これを毎回持っていって『今日の自然放射線の数値は0.053マイクロシーベルトです』って。ところが、福島の数値見たら『ケタが違うで』と。そういうことが分かる教材なんやね。」
 モノの性質や科学の原理は不変かもしれませんが、人間の技術は進歩しますし、社会も変化します。新たな技術を学んで生かし、社会の要請に合った学びを提供していらっしゃるのですね。
「科学サークルとしても例会を開いて、技術や講座の交換、授業経験の共有をやる。どうしたら子どもたちとうまく実験ができるのかっつうのを考えるわけ。」
 実験の楽しさを子どもたちにどう伝えるか研究し、うまく伝わればその反応に喜びを感じる。うまくいってもいかなくても次のステップ、さらに次のステップに…。なんとなく「理科の先生」の楽しさが分かった気がしました。
 海星時代に積み重ねたものが、今の生活を輝かせています。常に頭をフル回転させながら、元気な子どもたちとともに学びの場を作り上げる。生き生きとした毎日を送っていらっしゃるご様子でした。
「もしかしたら海星で一番の幸せ者やったんとちゃうかって。アイムハッピーエブリタイム(笑)。」
 これからもハッピーに、そして子どもたちにもハッピーな経験をプレゼントしながら、ご活躍ください!「鉄粉」ならいつでもご提供します!
(同窓会長 山下邦男)

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