恩師をたずねて

仰げば尊し我が師の恩。お世話になったあの先生は今どこでどうしていらっしゃるんだろう…。
そんな思いを行動に!引退された恩師を訪ねて近況をうかがう好評の企画。

今回お目にかかったのは,昔も今もダンディな『岩間央先生』です。
 訪問させていただいたのは社会科(地歴・公民科)の岩間央先生(在職一九六四〜二〇〇九)。ご存じの方も多いと思いますが、岩間先生のお住まいは四日市市西日野町。現在師は先祖代々受け継がれた神職として西日野にある日野神社と東日野の神明神社の宮司を兼務されておられます。
 笹川中学校の前から北へ向うと、天白川を渡ったところに立派な社号票があります。言わばそこからが参道。緩やかに坂を上り始めると間もなく日野神社はあります。
日野神社拝殿。 日野神社拝殿。
 同窓会の総会などでお目にかかることはありましたので、「卒業以来」ということではありませんでしたが、こうして個人的にお目にかかるのはずいぶんと久しぶりのこと。かなり緊張してご挨拶させていただくと「いえいえ、こちらこそ何か緊張しますな」と微笑まれる岩間先生。ふっと緊張の糸がほどけました。彫りが深く眼光鋭い岩間先生。直接受け持っていただいたことのない卒業生の中には「怖い先生」というイメージを持っている方が多いかもしれませんが、実はそんなことはありません。とても穏やかでユーモアのある優しい先生でいらっしゃいます。
 「実家がもともと神社でして、海星高校卒業後、一年間熱田神宮の養成機関で勉強しまして、それから大学に行きました。」
 岩間先生は一九五五年にエスコラピオス学園となった海星高校の2期生。学校創立から数えると7回生ということになります。つまり、多くの卒業生にとっての恩師であり、また同窓生でもあるわけです。
 朝のおつとめは毎朝4時半ごろから。神職専業となった現在はもちろん,海星にお勤めの頃も毎朝4時にはお目覚めだったそうです。地域の皆さんの平和と安全,幸福を願って毎朝太鼓を鳴らし,祝詞を奏上されます。ご自身の鳴らす太鼓の音で天気が分かるようになったともうかがいました。境内を掃き清めることも毎日の日課だそうです。
 日中はお出かけになることも多く、書店や図書館にはよくいらっしゃるそうです。お住まいの日野地区は戦災を免れて建物や商いが多く残っており、その歴史についても広く探求されておられるとのこと。地域の行事などの機会に講師として招かれることも多いそうですので、機会に恵まれれば、今も「岩間先生」の講義を受けられるのですね。
 健康の秘訣はやはり「規則正しい生活を送ること」だそうですが、「よく食べること」も大切だとおっしゃいます。
「年を取ったからといってお肉を食べなくなったりするのは良くない。添加物の入った物はできるだけ避けて、自然にあるものをしっかりと、何でも食べておれば病気にはなりません。」昔から変わらないすらりとした体でおっしゃいますから、いっそう説得力があります。「あまり深く悩まないこと」も健康の秘訣だと笑っておっしゃいますが、凡人にとってはそれほど簡単なことではありません。長く神職をお務めになる中で会得された達観なのでしょう。
 ところで、神職を勤めながらカトリック学校に就職し、教員を勤めることに昔から違和感はなかったのでしょうか。在学中から気になっていたことを単刀直入にうかがってみました。
お元気な岩間先生。 お元気な岩間先生。
「当時、リベロ神父さんが校長でして、リベロ神父さんは『日本の学校なので日本の教育をする』という信念を持っていらしたので、別に違和感は無かったですな。」
 一神教であるカトリックの神父でありながら、日本という土地の独自性を尊重し、その上で自らの目指す教育を実践しようというリベロ神父様の熱い思いが、教職を志した若き日の岩間先生にも伝わっていたということだったのでしょう。
「僕が在校生の時、リベロ神父さんが宗教の授業を受け持っていましてな。当時僕は〇点ばっかりだったので、教員になってからも言われ続けましたな。」
 笑ってお話しになる岩間先生の「〇点ばかり」という発言の真偽は分かりません。しかし、仮に宗教の成績が芳しくなかったことが事実だったとすれば、それを承知で岩間先生を採用したリベロ神父様は、岩間先生が神父様の目指す教育の実践に相応しい教員であることを見抜いていらっしゃったということになります。岩間先生も、ご自身がリベロ神父様の下で学生時代を過ごし、神父様の目指す教育に共感したからこそ、海星の教員になることを志されたのでしょう。スケールの大きな結びつきを感じます。
「先輩の先生方もみなさん恩師に当たりますので、すんなり受け入れてくれましたな。卒業生で教員として海星に入ってくる子を見ても、やっぱり海星の伝統,精神を受け継いでいますので、自然と身についていくものやなとつくづく実感しますね。」
ゆっくりお話をうかがいました。 ゆっくりお話をうかがいました。
 海星の伝統、海星の精神。それがどういうものかを具体的に言葉で表すのは難しいことですが、なんとなく分かる気がします。多くの同窓生の皆さんにも共感していただけるのではないでしょうか。
 そもそも、岩間先生が海星に入学することになったきっかけはどんなことだったんでしょうか。
「僕が小学5年生の頃、海星が海星になる前、南山高校だった頃。当時学校にプールがありましてな。自由に解放していて。その当時はまだプールが珍しかったので、近所の子どもたちでいっぱいやった。それからずっと海星に携わっとる。当時の学校は非常に自由な校風でしてな。」
 プールで他の子どもたちとはしゃぎ回る少年時代の岩間先生。スーツ姿のダンディな岩間先生しか知らないだけに、無邪気な姿を思い浮かべるのは簡単ではありません。しかし、戦後間もない時期の四日市で、外国人の神父様方が運営するプールが開放されていたのですから、子どもたちに与えられたインパクトは大きかったでしょう。その自由な空気は画期的だったろうと思います。
「ウソや隠しごとの無い、非常に開かれた学校でした。その反面『自己責任』ということでもありましたので、やることをやってないと落第でした。」
 問題の責任を他人に押しつける風潮,ウソや隠しごとが多く感じられる社会。今こそ海星の伝統,海星の精神が評価されるべき時代のようにも思えます。
「頭髪も坊主が主流やった三重県で一番に長髪にしたのが海星やった。」
 今でこそ中高生も長髪が当たり前になりましたが、私たちの時代もまだ他校の男子生徒たちは丸刈りが主流でした。海星はずいぶんと先を行っていたのですね。
「リベロ神父さんは四日市や三重だけを見ている人ではありませんでした。考え方が先へ先へ行っていましたな。」
 そんな校風だったからでしょうか。私が高校生だった頃は多くの学校が荒れていましたが、海星は平和でした。
「私としては、海星に勤めたということが、人生の中で一番幸せでしたね。周りの多くが自分の恩師であり、教え子であるというのが環境的に非常に恵まれていたし、今まで培ってきた人間関係がこれからも非常に役に立つと思います。」
 多くの卒業生を送り出してこられた岩間先生のこと。卒業生のクラス会などに招かれる機会もやはり多いそうです。
右から岩間先生、西田鉄也(34回生) 右から岩間先生、西田鉄也(34回生)
やっぱり教え子に会うのは楽しみやね。」
 卒業生がその後どこでどんな活躍しているのか。そんな話を聞くのが楽しみだとおっしゃいます。
「でも、年々集まる人が少なくなってきましたな。時代の流れというのか、個人情報の問題でなかなか連絡が取りにくくなっているみたいですな。」
 確かにそういう話はよく耳にします。縁あって同窓に学んだ者同士、また、お世話になった恩師の先生方と、顔を合わせる機会は貴重な時間です。同窓会の運営に携わる者としてこれからもますますお役に立てればと思います。
 初夏のすがすがしい青空の下でお邪魔した日野神社は緑も鮮やかでした。なんとなく清らかな心持ちになれたのは、環境の良さも含めた神社という場の持つ力と、大きく包み込んで受けとめてくださるような岩間先生の大らかなお人柄に、久しぶりに触れられたからだと思います。これを機に、折に触れてお邪魔させていただくことにしようと思いながら,帰途につきました。岩間先生、これからもどうぞよろしくお付き合いください!

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