教会の玄関で。
梅雨の中休み。薄曇りの下,訪問させていただいたのは英語科の大庭明先生(在職1968〜2009)。四日市市茂福にある教会の一室にお邪魔しました。先生の娘婿さんが牧師をお務めだというこの教会の一室を,ご自宅より落ち着いて話せるだろうとご用意いただいたのでした。
英語の授業を担当していただいた,客観的にはそれだけの関係に過ぎなかった大庭先生のことを私が特に印象深く覚えているのは,先生が常に「ハンドボールの福井君」と呼んで可愛がってくださったからでした。
当時私が所属していたハンドボール部の顧問は,着任間もなかった青井(旧姓・山口)万里子先生でした。その前任が大庭先生で,初任以来十年以上お務めだったこともあって,強い思い入れをお持ちだったようです。
私が海星を卒業したのは1981年。大庭先生はその前年に卒業した学年を担任してみえたそうです。
「その学年は北海道に行っとるんです。」
当時,修学旅行の訪問先は北海道と九州でした。交互に1年おき。私が在籍した学年は九州へ,大庭先生が担任された学年は北海道へ,ということだったわけです。
実は大庭先生,出身地は北海道洞爺湖町なのだそうです。教え子たちとともに訪れる北海道の旅に,感慨はひとしおだったことでしょう。
お元気でご活躍の大庭先生。
「支笏洞爺国立公園と言いましてね,景色もきれいですよ。温泉としては登別もいいんですが,景色はおそらく洞爺湖がいいでしょうね」。離れて50年経った今もふるさとへの愛は変わらないご様子でした。
高校を出て同志社大学英文学科へ進み,卒業と同時に海星に就職されました。
「イラオラ神父さんだったかな。簡単に『ここへ来ていただけますか』っつって。『はい』って,それでもう決まり」。
海星と同志社。カトリックとプロテスタントの違いこそあれお互いミッションスクール同士です。大庭先生御自身も敬虔なクリスチャン。「このときだけすんなりいった」と先生は笑っておっしゃいますが,学生だった大庭先生を高く評価したし大学が強く推薦したのでしょう。
「三重県っちゅうのは,それまでほとんど知らなかったですよ。他の先生方も『どうせ早く辞めるんじゃないか』って思ってたんじゃないですか(笑)」。
いろいろなお話をしてくださいました。
そんな,縁もゆかりもなかった三重県で英語教師として40年。何千人もの生徒たちとともに「がむしゃらに走っていた」とおっしゃいます。よく通る大きな声が思い出されます。
「神様が海星高校で働く機会を与えてくださって,同僚の先生方,一人一人の生徒さんたちも寛容に見てくださった。そのおかげでこうやって私が三重県で生活できるようになったっていうかね」。
そう感じるようになったのは,意外にも退職されてから。最近のことなのだそう。
「働いてた時はそんなふうに思えなかった。カッカカッカ頭に来るばっかりで(笑)」。
私の印象はとにかく「優しい先生」。他の先生にはよく立たされたものですが,大庭先生には叱られた記憶がありません。授業中のいわゆる「余談」も楽しかった思い出があります。
そんな大庭先生にも忙しさに気が滅入ったり,心労が重なったりすることはあったそうで,そんな時は,温泉に入ることで気分転換していらっしゃったそうです。
「長島温泉なんか,昔は夜遅くなると安くなったりとかあってね。あの頃はよく行ってた。」
生まれ故郷である洞爺湖も日本屈指の温泉地。温泉に入ることがリフレッシュに効果的だったのも,そのことと無関係ではなかったでしょう。
右から大庭明先生,福井茂人(29回生)
若い頃から教会関係の通訳を頼まれることも多かったという大庭先生は,英語科の先生方の中でも特に英会話を得意とされていた印象があります。海外研修プログラムを長く担当されていたのも,そんな理由からだったのでしょう。
高校生に海外ホームステイを体験させる「海外研修プログラム」は,業者から提案を受けた当時の校長モンレアル神父様が大庭先生に検討を指示されたのだそうです。
「こりゃいいぞってことで,始めることになりました。それで一番最初,ドメニオ神父さんと一緒にサンディエゴのエルカホンというところに生徒たちを連れていったんです。」
今でこそ学生の海外ホームステイは珍しくありませんが,当時としてはとても先進的な試みだったはずです。以来,大庭先生は長きにわたって運営責任者としてプログラムを推進,実施し,ご自身も幾度となく引率を担当されました。アメリカのステイ先でお世話になった卒業生も多いはずです。
そんな思い入れの深い海外研修の引率も,狭心症を患われてからは控えざるを得なくなったとおっしゃいます。
「40代で1回,50代で1回。去年も1回。発作が起こるとステントを入れるんです。動脈からカテーテル入れて。」
大変なことだったはずなのに,大庭先生はあっけらかんと話されます。
「一番最初はね,大袈裟だったし,しんどかった。次にやった時はだいぶ楽になった。この前なんてほんとに簡単やった。入院もたった1日でおしまい。」
一方で「病気になってからは慎重になった」とも。「若い頃は調子に乗っとったところがあった」という大庭先生。
「生徒さんたちにも『もうちょっとしっかりしろ』と思われとったんじゃないかな。」
意外な印象ですが,御本人いわく結婚前は「ちゃんとするということができなかった」とおっしゃいますからさらに意外です。
「ワイシャツなんか洗わないで,汚れたら押し入れに放り込んで,新しいの出して,みたいなことしてた」。
「きちんとした先生」という今の印象からはかけ離れたイメージです。
ご愛用の聖書。中は書き込みでいっぱい。
クリスチャンとして生きるということについても,もともとクリスチャンでなかった奥様との結婚を機に自覚的になったとおっしゃいます。
一番近いプロテスタント教会ということで日本長老教会の四日市教会に通うようになった大庭先生は,間もなく自宅で勉強会を開くなどの活動も始められました。現在「長老」の一人として運営に携わっておられる北四日市教会も,そうした活動が母胎となって設立されたのだそうです。
当然,現在の生活では教会に関わる活動が「一番大きい」部分を占めているとのこと。特に,日曜の礼拝で行う「メッセージ奉仕」をとても大切にしていらっしゃるそうです。聖書の一節を取り上げて,その内容を分かりやすく解説し,そこに込められたメッセージを伝えるのだそうです。
「まず自分なりに理解するんです。そして,どこに重点を置くか取捨選択して話をします。間違ったことは言えないから,いろいろ調べてお話しするんです」。
「奉仕」の前には,相当な数の参考文献や辞典に当たり,時には英語の文献も読み込んで準備をされるそうです。
「退職前は,やっぱり翌日の仕事ことを考えて,調べるのを途中でやめてました。今は自分が納得できるまでゆっくりやれる。だからものすごいありがたい。自分自身が分かるんです。」
礼拝の参加者にメッセージを伝える「奉仕」の活動を通じて,自分自身の信仰を深めていらっしゃるようにお見受けしました。
現在,北四日市教会の他に名古屋市内の教会でも月1回のメッセージ奉仕を引き受けておられ,その他の教会からも年に数回依頼を受けるらしく,1年間に30回近く担当されるとのこと。「メッセージ奉仕」のない他の日曜も礼拝は欠かさず,常に司会などのお役目を引き受けていらっしゃるそうです。
「だから体が壊せない。先日も卒業生の結婚披露宴に招いてもらったんですが,土曜日で。次の日のお話のまとめを作らなきゃいけないし,体を調整しとかなきゃいけないので,お断りしたんです。」
大切なことのためとはいえ,卒業生のみなさんとの交流が限られてしまうことに,負い目を感じていらっしゃるご様子でもありました。
「義理を果たしてないというか。みなさんにお世話になってるわりには,挨拶もあんまりできないような状態なので…」と大庭先生。この記事を通じて,先生のお元気なご様子とともに,先生のそんな想いも伝われば嬉しく思います。
研究熱心なご様子がよく分かります。
教職を退いて,がむしゃらに走らなくなった今も,充実した毎日をお過ごしなのは変わらない様子。でも,精神的に楽に過ごせる今は「気分転換も無くっていい」と笑っておっしゃいます。
ご自宅では近所の子どもたちに英語を教えたりもしていらっしゃるそう。もともと奥様が開いていらっしゃった英語教室を手伝っておられるのだそうです。
「教えとって面白いですね,やりだすと。」
長年の経験が先生の血を騒がせるのでしょう。「英語の先生」をすることが,今は逆に気分転換になっているご様子でした。
「終わったらちょっとフラッとなるけど。」と茶目っ気たっぷりおっしゃる大庭先生。ユーモアと愛情いっぱいに教えていただける近所の子どもたちは幸せに違いありません。ぜひ健康第一で続けていただきたいものです。