インタビュー Jリーガー 近藤慎吾選手

東京・表参道の、とあるビルの一階。暗い迷路のような屋内を案内され、
「ここでやりましょう」と通された「事務所」。
眼前に広がったのは、まるでジムのような光景—
いや、多種多様な運動機器が並べられたそこは、紛れもなく、ジムであった。
 株式会社クオーレ。サッカー日本代表にして現在はトルコの名門ガラタサライで活躍する
長友佑都が立ち上げた個人事務所。
案内の主は、近藤慎吾。長友のマネージャーとして、彼とともに世界を飛び回っていた男である。

  「飛び回っていた」と書いたのは、もちろん彼が今その立場にないから。近藤さんは今年3月から、J2・水戸ホーリーホック所属の「サッカー選手」なのだ。その経歴もさることながら、それ以上に驚くべきは、一九八七年生まれであるということ。なんと32歳にして、プロサッカーチームへの加入を実現させたのである。
Jリーグで長く活躍する選手でも三十代後半には引退を迎える。ましてサラリーマンから転身してのプロ入りとなれば、その経歴が異例中の異例であることがお分かりいただけるであろう。

 決して強豪とは言えなかった海星サッカー部出身の近藤さんが、いかにして水戸との契約を勝ち取るまでに至ったか—

 シンデレラストーリーの始まりは、海星高校入学前に遡る。
「元々は神奈川県の出身で、父親の転勤に伴い三滝中に転校しました。当時は三泗選抜に選ばれていて、そこで青柳先生から『お前らおもろいから海星来い』って、同級生の伊藤圭太とふたり、声をかけられたんです。」
「おもろいから」という理由が、いかにも青柳先生らしい。
「移動中のバスなどで、友達とふざけあったり、賑やかしのようなことをやっていたので、チームの雰囲気を明るくする存在として目をつけられたのかもしれません。正直、サッカーに関しては、全く期待されていなかったと思います(笑)。」

 転機は高校1年の夏に訪れた。
「県選抜のセレクションがあって、他の高校では監督から選ばれた人が受けに行くんですけど、青柳先生は『受けたい奴は行ってええぞ』って言ってくださったので、手を挙げたんです。ただ、当時はレギュラーでもなかったので、先輩や同級生からは『絶対無理だよ』と言われました。 青柳先生も、『慎吾、お前に言うたんちゃうぞ!』って(笑)。でも、行ったその試合で3点くらい決めて。セレクションのスタッフも、何かよく分からないけど3点決めてる奴を外すわけにはいかなかったみたいで(笑)。それで『県選抜』という肩書きがついたら、周囲の見方も変わってきますし、練習にもいっそう身が入るようになりますし。『立場が人をつくる』と言いますか...。」
 そのまま、3年生まで県選抜。国体では10番を背負った。
「10番と言っても、ベンチでしたけどね(笑)。」

 国体の前の「ミニ国体」で、静岡県選抜に勝利した試合が個人的なハイライトだという。
「その当時の静岡選抜って、ベンチメンバーも含めて15人くらいがその後プロに進んでるチームなんです。僕、その試合で、めっちゃ良いシュート決めてます(笑)。」
 海星サッカー部での主なポジションは、CF(センターフォワード)。ディフェンスラインの裏に抜けるスピードと、ヘディングの強さが売りだった。同期で2トップを組んでいたのは、中学時代から「僕らの世代のスーパースターだった」と語る高木徹さん(53回生・現海星高校教諭・サッカー部顧問)。 戦力は充実していた。しかし近藤さんは残念ながら、全国選手権の予選は怪我のため出場できなかった。「あいつがおったら全国行けたかもしれやん」青柳先生は今でも悔やむ。

 近藤さんには高校時代、監督とのこんな印象深いエピソードがある。
「もともと調子に乗るタイプだったんですけど、3年生になっても結構ふざけてて。あるとき先生がまじめな話をしている最中に隣りの奴とふざけあっていたら、突然、先生が作戦ボードを地面に叩きつけて『俺はもう監督やらん!慎吾、お前がメンバー決めて練習せぇ!』って、怒って帰ってしまったことがあったんです。それで、その場では『よし、じゃあこれでいくぞ!』 なんて、僕が本当に仕切ってやってしまったんですが(笑)—後で謝りに行くと、『明るくて周りを楽しませることができるのは良いことだけど、まじめにやるとき、ふざけるときのメリハリを考えた方がいい。その明るさは、社会人になっても通用する、お前の魅力だから』と諭されて。青柳先生には、本当に育てていただいたと思っています。」

 また、明治大学への進学に際しては、
「後から聞いた話なんですけど、青柳先生が明治の監督に手紙を送っていたそうです。『こんな面白い奴が行くから、鍛えてやってください』って。それもあって、セレクションで入れてもらえたそうなんです。本当に感謝しています。」

 しかし当初は、そのレベルの高さに驚いたという。
「当時、明治大学の同期では、後にプロで活躍することになる林陵平や、橋本晃司がCFで同ポジション。ほかにも代表クラスの選手、名門校出身の選手がたくさんいて、攻撃的なポジションではチャンスがないなと。それに比べて、後ろのポジションは層が薄かった。そこで、『高校でCB(センターバック)やったことありますよ』って。」
 170cmとアスリートとしては小柄ながら、近藤さんは身体能力が高く、ヘディングが得意だった。「体育祭でも、走り幅跳びで6mくらい跳んでいた」と青柳先生。当時のチーム事情もあり、そのポテンシャルを買われて、2年生の時にはCBとして活躍した。「俺の隣にずっといて、『どこでもやります。出してください!』って言ってくるようなおもろい奴やった」と青柳先生は当時を懐かしむ。

 そして、大学ではCBでレギュラーを獲得。後の人生に大きな影響を与えることになる長友さんとは、サッカー部の同期として出会った。お互い、スポーツ推薦でなく指定校推薦で入ったということもあり、入学当初から仲が良かった。大学4年生だった2008年には、J2・横浜FCの強化指定選手にも選ばれ、卒業に際しては他のJリーグチームからも誘いがあった。 しかし、プロでやっていく自信がなかったことと、「サラリーマンになる」ことも夢の一つであったため、就職活動をして、野村証券への入社を選択する。野村証券では法人向けの営業を担当。社会人としての生活は充実しており、不満もなかった。「エリース東京」という社会人チームにも所属し、週末はサッカーをする、という生活。
「仕事の利害関係なしに、好きなことを仲間と一緒にやれる。心が豊かに育まれるような、貴重な時間でした。」

「そろそろ5年だよな」—卒業から5年が経った27歳の春、長友さんにそう声をかけられた。個人事務所を立ち上げた彼に、マネージャーとして誘われたのだ。確かに「いつか一緒に仕事をしよう」とは言い合ったし、就職したときも5年は頑張ろうと思っていた。
「まあ、何人か声をかけた中の1人だったのかもしれないですけどね(笑)。ただ、彼の周りの人間でビジネスの方面に進んだのは僕くらいでしたし、『なんかこいつデキそうだな』と思われたのかもしれません。」

 突然の誘いを、当初は、断るつもりでいた。上場企業の会社員という安定した職を捨てて、スポーツビジネスの世界に飛び込むのは、そのパートナーが有名選手だとはいえ、リスクが高いと思えた。しかし、両親や家族、会社の同僚や先輩に相談すると、予想に反して全員が「そんなチャンスはめったにない、受けた方がいい」と勧めてきた。それで、考えを改めた。
「企業人として5年間やってきたという自負はあった。そして、長友のマネージャーとしてしっかりと実績を上げれば、更に5年後、今よりもっといろんな企業から欲しいと思われる、唯一無二の存在になれるのではないか。そう思ったんです。」

 マネージャーの仕事は、長友さんをスポーツ用品などのイメージキャラクターとして売り込むことや、CM出演、雑誌取材の依頼への対応など芸能プロダクションの仕事に近かったという。取り扱う対象が、金融商品から長友佑都という個人に変わった。「楽しいことをさせてもらっていました。」5年たった今、振り返って、後悔は全くない。

「Jリーガーを目指してみないか。—31歳の冬、長友さんからの誘いはまた、突拍子もないものだった。その理由について近藤さんは、次のように考えている。
「1つは、サッカー選手が30代でベテランという扱いを受けていることに対して『30歳を過ぎてもピークを迎えられる』というメッセージを、僕を通して世間に発信したかったんじゃないか、ということ。そしてもう1つ、この事務所の理念『食事と運動で肉体を変えることができる』ということも、証明したかったんだと思います。」

 長友さんが近藤さんを誘った理由にはさらにもう一つ別の理由があったのではないか。近藤さんは最近そう思うようになったという。その理由とは、「『近藤慎吾』という個人で勝負してほしい、ということ。
「マネージャーをやっていたとき、『長友佑都』という商品が売れていたのはもちろん長友本人のネームバリューによるところが大きかったと思っています。でも、長友は『近藤慎吾がマネージャーだったから売れていた』と感じてくれている。そして、そのことを僕に証明させたかったのではないかと。それは専属の加藤シェフについても同じで、彼を世に出す発信も僕はしてきたのですが—、 さらに僕がJリーガーになって、試合に出て活躍することによって、彼のこともさらに世に知られるようになる。『長友だから』という評価を覆したい。そんなことを僕に期待しているんじゃないかと、思うようになったんです。」

 そこまでに周囲を惹きつける魅力—青柳先生の「おもろい奴」という人物評が、全てを物語っている。近藤さんは笑顔で謙遜しつつ、「でも、ラッキーだったなとは思います。」と振り返る。
「本当に人とのつながりには恵まれて、人生の節目で声をかけてくれる仲間がいる。そういう生き方ができてきたことは、良かったなと思います。」

 いちばんの恩師である青柳先生以外にも、印象的な先生を挙げてもらった。
担任は、1年は飯島滋之先生、2・3年は伊藤敦司先生。思い出を聞くと、「伊藤先生は—」と言いかけて笑い出した。
「海星祭のときに、クラスで出し物をやりますよね?当時、伊藤先生が森山直太朗の『さくら』にハマっていたらしく、みんなで歌うことになったんです。ところが、みんな歌がそんなに得意ではなくてなかなかうまく歌えない。そしたら、当日、先生がカラオケ音源ではなくて普通の歌入りのCDを持ってきたんです。それを大音量で流して(笑)。 結局、一応みんな口は動かしてるけど、聞こえてくるのは森山直太朗の歌声だけっていう、シュールな光景が。観ている人もあっけにとられていましたよ(笑)。」
 とにかく独特な雰囲気を持つ先生だったと、懐かしそうに語る。

「飯島先生は、有名な話ですけど、『握力が強すぎる伝説』ですね。列車の吊革につかまっていて、居眠りした拍子にギュッとつかんだら持ち手が壊れたっていう(笑)。あと、怖かったのは化学の山口俊雄先生。クッシー(久志本隆彦先生)や、サッカー部が多いクラスの担任だった長野耕治先生も印象深いです。」

 同窓生共通の思い出として必ずと言っていいほど話題に上る「スクワット」と「体育祭の練習」。「あれ、嫌でしたねぇ」近藤さんも例外ではなく、苦笑いする。「スクワット300回とか、ホントきつかった。最後の方はごまかしてお辞儀だけする、みたいな。それで怒られるっていう(笑)。」そう言って、楽しそうに市川敏郎先生の口ぶりを真似する。「みんな真似してましたよね?(笑)。」各クラスに数人は「市川先生」がいたものだった。

 近藤さんに、「海星で良かった」と思っていることを聞いてみた。
「女の子の目を気にする必要がなくて、変にカッコつけなくてもいいので、みんな素直でしたよね。素の自分で、愚直に努力することが素晴らしいんだよ、と教えられたのは、良かったと思います。素の自分と付き合ってくれるのが、本当の仲間なんだっていう。『何でも正直でいたい』と思える自分の性格が、僕は好きです。」
 一方で、少しネガティブに思うこともある。
「カッコつけないことが良いと思っているので、その「男子校マインド」を他人にも押し付けてしまうというか、『なに、人目を気にしてるんだよ』と思ってしまうことはありました。職場が変わって30歳を過ぎてから、もっと寛容にならなければいけないなと思うようになりましたけど(笑)。」

 現在、近藤さんは水戸に生活の拠点を移し、サッカー中心の生活を送っている。チームの練習時間は10時∼12時。ただ、多くの選手は2時間前にはグラウンドへ来て、体を温めたり、ストレッチやウォーミングアップをして備えている。練習後、昼食をとり、試合映像の分析やトレーニング、身体のケアをすると、だいたい15時から16時になる。サッカーという仕事に向き合う時間としては、「サラリーマン時代とそんなに変わらないな」という印象だ。 大学卒業時に、プロチームからのオファーもありながら、「自信がない」との理由もありそれを断った近藤さん。

Jリーガーとなった今、“自信”は—
「全然ないですね。」きっぱりと否定する。「むしろ、よりはっきりとレベルの差を感じています。試合にも練習にも全然絡めていないですし。ただ、加入したての頃の『あ、これ無理だな。』という感覚からは少し変わってきていて、チームに帯同する中で、自分には何が足りないのか、レベルの差を埋めるために何をしていけばいいのか、ということの明確な答えは出ています。とにかく、『やっていればできるようになっていくんだろうな。』っていう変な自信というか(笑)。」
 加入した当初のチームからの評価は「ピエロ」。つまり、話題性が先行していたと近藤さんは感じている。しかし、3か月が経過し、「けっこう動ける」ことは証明できた。あとは、いかに「流れ」を掴むことができるか。
「チームの状態が悪い時、怪我人が出た時に、使ってもらえる選手であるために、日々の努力を欠かさないこと。そうすれば、絶対、僕にはチャンスが来ると思っています。高校・大学時代にそうであったように—」

 高校でCF、大学ではCBとしてポジションを掴んできた近藤さんだが、水戸ではSB(サイドバック)という新境地を開拓している。
「CBに比べてSBは選手層が薄いので、ベンチに入れる確率が高くなるんです。正直、SBとしては全然Jリーグのレベルに達していないので、頑張って最低限のレベルに引き上げて、最終的には本職のCBで勝負したいですが...。CBもSBも両方できるようになって、試合に出ることを今の目標にしています。」
 Jリーガーとしての公式戦出場という1つのゴールに向かって、日々、研鑽に勤しむ近藤さん。海星で学んだ3年間を振り返って、改めて感じていること。それは、我々同窓生へのエールでもある。  

「着飾ることなく『裸の自分』で勝負していく男の姿が、僕なりに思う海星の精神。正しいことを、正しい手順でやっていれば、それを人に見せても恥ずかしくない。そう思えるからこそ、そのための努力ができる。もし、『裸の自分』を見せられないのであれば、見せても恥ずかしくないように自分を磨く。そして、そんなみなさんが、それぞれの場所で輝いて、『海星の卒業生って素敵だよね』って周囲から思われる存在であればいいなと思っています。」

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