西田有志選手
東京五輪に向け捲土重来が期待される全日本男子バレーボールチーム。
その中垣内監督をして「スーパー18歳」と言わしめる期待のエース候補が現れた。
その名は西田有志。まさにこの春海星を卒業したばかりの若者である。
ハードスケジュールの合間を縫って、彼の話を聞くことができた。
昼前の静かな食堂に爽やかな好青年が姿を現した。
西田有志さん(66回生)。
二〇一八年三月に海星高校を卒業して、愛知県刈谷市を本拠地とするジェイテクトSTINGSに入社。時を同じくして中垣内祐一監督率いる全日本男子バレーボールチームに大抜擢を受けた。現在、日本バレー界期待の「新星」として注目を集める。西田さんは本誌インタビューの求めに、わずか数日間の休暇を返上して快く応じてくれた。しかもノーギャラで。取材の少し前までフランスや中国を飛び回り、休暇の4日後には東京で全日本代表の合宿がスタート。その後も、鹿児島、中国、フィンランド、イタリアと国内外を飛び回る多忙な日々を過ごす。全日本メンバーに選抜されてから、海外に行く機会が増えた。
「今ではマイル貯まりまくりですよ。でも、最初はマイルの存在を知らなくて世界一周分くらい損しました。もっと早く知っていれば、海外旅行にも行けましたよ。 」
そう笑って語る表情は、まだあどけなさが残る18歳である。今ではマイルを貯めるのも楽しみの一つだ。
インタビューは海星高校食堂で行われた。聞き手は小林一憲(49回生)である。西田さんとは在学中からよく話をする間柄だった。
学生時代は食堂をほとんど利用しなかったという西田さん。
「いつも母の弁当だったので。おいしかったですよ。なので、かえって食堂が新鮮で。」
母校の食堂の串カツを味わう西田選手
食堂で定食の串カツを食べながら話を進めていると、
「すみません。写真撮ってもらっていいですか?」
と、生徒から声がかかる。この日、3年生は期末試験の初日であった。試験後、昼からの練習に備えるために食堂にやってきた野球部員にとって、あまりにも有名になった「先輩」の突然の来訪には、気持ちが高揚しないわけがない。在校生や教職員から写真を求められるが、嫌な顔ひとつせず、にこやかに応じる姿はとても好印象である。数か月前まで高校生だったとは思えない落ち着いた対応であった。中学生や高校生、教師たちにとって、西田さんはもはや「スター選手」なのである。
「昨日も個人的にジャズドリームへ出かけてたんですけど、やっぱりバレちゃいましたね。」
と、はにかみつつ、プライベートな時間であっても、ファンにきちんと応対することの大切さを彼は知っている。
そんな西田さん、バレーはいつから始めたのかというと、
「姉や兄の影響もあり、保育園の年長から始めました。」
幼い頃からバレーボールが身近にあったのである。小学時代は、ジュニアチーム「大安ビートル」で練習に励んだ。地元の大安中学校に進学した後、海星バレー部の指導者でもある大西正展先生率いる「NFOオーシャンスターバレーボールクラブ」に所属した。中学時代の学校のクラブ活動では、経験者が少なく、自分が同級生に教えることもあったようだ。その中で自分を客観的に見ることができ、そうした経験がバレーの幅を広げた要因だと言う。
高校入学前に、すでに立派な体格だった。実際、海星入学前の春休みに高校の練習に来ていたとき、西田さんの姿を初めて見た小林は、大学生が来ていると思ったほどである。そのときの話をしたら、西田さん自身も覚えており、「懐かしいですね」と笑い合った。
そんな彼のスケールの大きさに目を付けない強豪校はない。もちろん、高校進学の際には全国的に有名な強豪校からの誘いもあった。そんな中でなぜ海星を選んでくれたのか。
「もともと大西先生のところでやっていたっていうのもありますし、なぜか(強豪校に)行こうと思わなかったんですよね。むしろ、男子校ってのも良かったんだと思います。ブレることがない。というかブレれないしね(笑)。」
続けて海星での思い出についても語ってもらった。まずは体育祭。
「体育祭であんなに一生懸命になるのは男子校だけだと思いますよ。だって、『ぐるぐるバット』(余興種目の1つ)とか、綱引きとかで流血する奴いたし。気分悪くなったりケガとかで保健室は15分待ちだった。そんな学校ないでしょ(笑)。」
楽しそうに話す西田選手に聞き手の私も嬉しく思う。
「印象に残ってるのはやっぱ高跳びやね」
横で話を聞いていた渡邉陽一先生も西田さんの思い出を語ってくれた。この話は西田さんが2年生のとき、体育祭の走高跳において3年生に交じって優勝争いを演じていたときの話である。
「だいたい先輩に優勝を譲るとか、同点優勝にしてくださいとか、そういう話が出そうなものを、『最後までやらせてください』となって。それに上級生も刺激を受けてデッドヒートやったよね。そこに全く嫌味が無く、上級生も挑戦を受け、むしろ学校全体がそれを注目していた。とても盛り上がって。それが鮮明に記憶に残ってるわ。」
次にクラブ活動。高校生活ラストイヤーで念願を叶え、初めてインターハイの舞台へ。その強打は見るものを驚かせ、チームも初出場ながらベスト16入りを果たした。しかし、春季大会では、惜しくも準優勝に終わる。
この結果について聞いてみた。高校バレーボール界で最も大きなこの全国大会「春高バレー」への切符を逃したことをさぞ悔やんでいるかと思いきや、
「もしあのとき勝っていれば、今の自分はいない。全国大会に出場していれば今の勢いはないと思う。そこで負けたことで、その代わりに出た大会での好結果があって、現在に繋がっていますから。」
悔しさを乗り越えた確かな強さを感じた。
そんな西田さんも4か月前は高校生。当時と現在の変化については、
「環境はガラリと変わりました。バレー選手でありながら、まず社会人としての対応が求められること。考え方、行動、全てにおいて見直さなければならいと思います。高校生とは全く違います。」
注目されるようになり、取材を多く受けるようになったことで、西田さん自身が勉強になったこともあるという。
「言葉は選ぶようになりました。でも、ビックマウスというか、チャレンジャーとしての気持ちは持ち続けたいです。辞めたくない、決めたことを妥協したくないんですよね。」
理想とする選手像については、具体的な名前は出てこなかったものの、
「謙虚さは絶対忘れたくないですね。謙虚さをもちながら、強い気持ち、闘志を出せる選手になりたいです。ただ、現状は社会人としての行動や考えを身に付けるのが第一優先ですね。それがバレーに繋がってくると思うんです。人生は選手としての時間より、社会人としての時間の方がはるかに長いですから。」
なるほど、どこまでも前向きでありながら謙虚さも忘れない。しかもそれが建前ではなく、どんな質問にもその姿勢が一貫しているのが伝わってくる。
後輩に対しては、
「友達とコミュニケーションをいっぱいとってほしいですね。今、携帯ばっかり触ってる子が多いじゃないですか。僕自身も多少はやってましたけど、休み時間はいっぱい喋って貴重な3年間を有意義なものにしてほしいです。人との時間はそのときだけのものですから。」
海星同窓生に対しては、
「とりあえず今も、これからも思っ切りバレーをしたいです。海星高校っていう名前に恥じないように頑張るだけです。」
10代の若者らしからぬスケールの大きさ。まだまだ可能性は無限大である。今後のバレー界を牽引し、再来年の東京オリンピックでの活躍が待ち遠しい。今後の西田さんの更なる活躍に期待したい。
西田有志選手のあゆみ
2000年 |
1月 |
いなべ市に生まれる。 |
2009年 |
8月(小4) |
全日本小学生大会に出場する。 |
2014年 |
12月(中3) |
全日本都道府県対抗中学大会で8強入りを果たす。 |
2015年 |
4月(高1) |
海星高校に入学し,バレーボール部に入部する。 |
4月 |
県高校春季大会で準優勝する。 |
2016年 |
2月 |
県高校新人大会で準優勝する。 |
4月(高2) |
県高校春季大会で準優勝する。 |
5月 |
県高校総体で準優勝する。 |
8月 |
日・韓・中ジュニア交流競技会に出場する。 |
10月 |
国民体育大会に県選抜チームでスタメン出場する。 |
11月 |
県高校選手権大会で準優勝する。 |
11月 |
海星バレーボール部キャプテンに就任する。 |
2017年 |
2月 |
県高校新人大会で優勝する(創部以来初の県大会優勝)。 |
2月 |
全日本ジュニアオールスタードリームマッチに出場する。 |
3月 |
東海高校選抜大会で準優勝する。 |
3月 |
アジアユース選手権大会で優勝する(史上初)。 |
4月(高3) |
県高校春季大会で優勝する(創部以来初)。 |
5月 |
県高校総体競技で優勝する(創部以来初)。 |
7月 |
全国高校総体に初出場し,16強入りを果たす。優秀選手に選ばれる。 |
10月 |
国民体育大会に県選抜チームのキャプテンとして出場する。 |
11月 |
県高校選手権大会で準優勝する。 |
2018年 |
1月 |
V・プレミアリーグで鮮烈なデビューを果たす(史上最年少)。 |
3月 |
海星高校を卒業する。 |
3月 |
同リーグのプレーオフで日本人最多得点を挙げ,オールスター戦に出場する。 |
4月 |
ジェイテクトSTINGSに正式入団する。日本男子代表に抜擢される。 |
5〜 6月 |
FIVBバレーボールネーションズリーグ予選ラウンドに出場する。 |
7月〜 |
世界選手権チームのメンバーとして国内外の合宿に参加する。 |