昨秋のドラフト会議で読売ジャイアンツから3位指名を受け入団。
今シーズン開幕後3・4月度MVPにも選ばれ、
現在も先発投手としてチームを支えている。
海星野球部時代の昔、プロ野球選手の今。
明るい笑顔が印象的な高木選手に独占インタビュー!
デーゲームの阪神戦を直後に控えた日曜昼の東京ドーム。この日登板予定の無かった背番号54番が応接室に姿を現した。物腰柔らかな明るい好青年の印象である。
高木勇人投手。開幕から負け無しの5連勝を記録し、今やジャイアンツ先発ローテーションの柱となっている新人投手だ。2008年に海星高校を卒業後、三菱重工名古屋に進み、昨秋のドラフト会議で読売ジャイアンツから3位指名を受けて入団した。
高校卒業時からプロ入りを志願しながら、ドラフト指名漏れが続いたという苦労のエピソードが話題となったが、同窓生としては久しぶりのプロ野球選手の誕生を大いに喜んだところ。いよいよシーズンが始まってみれば、開幕を1軍で迎え、3戦目には早くも先発登板して堂々の初勝利。その後はご存知のとおり負け無しの5連勝で、3・4月度の月間MVPにも選ばれた。失礼ながら、予想していた以上の活躍ぶり、というのが多くの同窓生の正直な感想だったのではないだろうか。
「そうですね。ただもう、やるからには絶対出るんだと思って。そういう気持ち持ってプロに入ろうと思って、ずっとやってきたので。キャンプからちょっとでも名前を覚えてもらおうと思ってやってたのが良かったのかなと。」
そんな強い思いが形になって、開幕早々の快進撃。一気に主力選手の仲間入りを果たし、一躍スターになった。シーズン中盤を迎えても、いまだ防御率は低い数字に抑えられている。それでもプロで活躍する手応えについては「まだ分かんないです」と控えめだ。
津市立西橋内中学出身の高木選手。海星の野球部に進むことになったきっかけは、中日ドラゴンズで活躍した野球部の大先輩、北野勝則さんのお父さんの言葉だったという。
「もともと面識があって『海星はええぞ』とお話をうかがって。で、『がんばって受験します!』と。受験の成績はたぶん優秀だったと思いますよ(笑)。」
ユーモアたっぷり笑顔で話してくれる。愉快なヒーローインタビューも評判の高木選手だが、あの笑顔とキャラクターは作られたものではない。高木選手自身の朗らかな人柄がにじみ出たものなのだ。海星時代はどんな野球部員だったんだろうか。
「まあ、とにかく毎日怒られた。授業中も含め、ほんとにおっきな声で毎日怒られてたような…(笑)。湯浅先生(監督)なんか、廊下ですれ違うだけでも、めっちゃ怖かったですね、当時は。今はもう『あの先生のおかげで』って思いますけど…。」
高木選手は2007年夏に県ベスト4まで勝ち進んだチームのエースだった。湯浅和也先生が監督を務めた最後の世代ということになる。湯浅先生の言葉で印象深いものをと問いかけると、高木選手は迷わず答えた。
「やっぱ『感謝』です。『感謝の気持ちを忘れるな』って、ずっと言われてたので、それは今になってもずっと…。」
ドラフト3位指名を受けた記者会見で「野球人生を支えてくれたすべての人に感謝の気持ちを伝えたい」と語った高木選手。初勝利のお立ち台で流した嬉し涙も、そうした人たちに「やっと恩返しできる」という思いが胸を熱くしたからだという。
「野球ももちろん教えてもらったんですけど、人としてしっかり、ちゃんと導いてもらったのかなと思います。それがもう海星野球部の一番の思い出です。」
野球以外にはどんな思い出があるのだろうか。
愛校心の強い海星OBにとって、兄弟や息子のようにも思える高木選手のこんな言葉は、むしろ最高に嬉しいメッセージなのではないだろうか。後輩に対しては…
「やっぱり『夢を持って』って。夢は諦めたらダメだっていうことだけは、ほんとに自分自身が実感したので。夢を持つことは絶対大切だなと思います。」
「夢を持て」とはよく言われることだ。しかし、「夢」は簡単に叶わないからこそ「夢」なのである。夢の実現を目指す者の多くが、その前に立ちはだかる壁に挫けてしまう。
プロ野球選手になることが夢だった高木選手。彼の前にも壁は幾度となく立ちはだかった。甲子園出場を逃し、何度もドラフト指名から外れた。そんな壁に挫けそうになった時、高木選手はどう乗り越えてきたのか。