退職された先生方
「教育の現場・職員室から」 | 浅野 辰彦 先生 |
同窓会の皆さん、はじめまして。浅野と申します。はやいもので、こちらの学園に赴任して、はや10年の月日が経とうとしています。今思うとあっという間の出来事であったような気がします。その間いろいろな生徒たちと出会いそして別れ、この春にはこの学園での2度目の卒業生たちが大学の学業を終え、社会に巣立つこととなります。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 22回生(昭和48年度卒)中野清先生 |
21世紀も2年目の春がやってきました。毎年、4月は自分も新入生のように新しい1年を期待と不安でむかえます。特に今年のように校長が変わったりするときは期待の方が大きくなります。同窓生の皆様方も同じように何か新鮮な気持ちになっておられるのではないでしょうか。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 水野学 先生 |
1978年に海星に来てから早25年が経過します。最初は他県の高校に就職しました。最初に就職した学校ということもあり、今でも大変懐かしく思っている学校です。5年後結婚を期に生まれ故郷の三重県に戻り、海星にお世話になることになりました。今回は海星赴任当時のことを思い出して感じたことを紹介したいと思います。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 17回生(昭和44年度卒)田中 秀二先生 |
同窓会の皆様、ご機嫌いかがですか。私は海星高校・英語教師として早くも29年、担任を24年間、私のクラスの教え子も約350人を数えます。 |
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「教育の現場・職員室から」 | ホセ=ルイス=イルズン 先生 |
神父と先生 ホセ=ルイス=イルズン 30年以上前にスペインから来たイルズンです。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 26回生(昭和53年卒業)湯浅和也先生 |
同窓の皆様、お元気でしょうか。今、海星高校を卒業されてどの様な思いをお持ちでしょうか。よかったですか。海星で学んだことはどんなことだったでしょうか。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 紅林 尭樹先生 |
2015年から理科を担当している紅林尭樹と申します。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 別府せい子 先生 |
大学を卒業して一年後、海星高校に来ました。それ以来二十数年、私にとっては常に居心地のいい場所でした。生徒達との出会い、授業やさまざまな学校行事、印象深いことは多々あります。中でも自分が英語科ということもあり、今年で18回目を迎えた海外研修に関しては特に思い出深いものがあります。いままでにアメリカとオーストラリアへ合わせて7回、生徒達と一緒に参加し、それぞれの土地でいろいろな経験を共有してきました。また、3年に一度行く修学旅行は、準備は大変ですが、楽しいことの一つです。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 16回生(昭和43年卒業) 早川雅章先生 |
海星高校に社会科教師として奉職して、早いもので23年+2年になりました。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 25回生(昭和52年卒業)玉木英明先生 |
海星同窓会の皆様、いかがお過ごしでしょうか。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 20回生(昭和47年卒業)沢村弘行先生 |
6年前、生徒会顧問の私のところへ高1の生徒が3人やってきて「バレーボール部をつくりたいんですが。」と申し出てきました。最初は「顧問の先生もいないし、体育館は他のクラブでいっぱいで場所もないから無理だ。」と、説得しようとしましたが、あまりにしつこく何度も申し出てくるので、ついに私のほうが根負けし、いつのまにか私が顧問になってバレーボール同好会を作ることになってしまいました。私はバレーボールの経験はありませんでしたが、幸いその3人の中に中学のとき北勢選抜に選ばれた生徒がいたので、その子を中心に練習が開始され、何とかお願いして他校との練習試合も行うことができました。そして本年度からは念願であったバレーボール経験者の教師が顧問になり、現在、厳しい練習が日々行われております。近いうちに県のベスト8、いやベスト4に名乗りをあげる日も遠くないと思います。卒業生の皆さん、21世紀の海星バレーボール部の活躍にご注目ください。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 西原 光郎 先生 |
先日、高体連に登録するために部員の名簿を作成していて、ふと手が止まってしまった。 今日、その子達が練習が終わった後、道場で何やら大変盛り上がっている。何だとのぞいて見ると、引退したばかりの3年生に坊主頭にしてもらっているのだ。それも自分達から言い出したらしい。どうやら昨日のインターハイ予選が尾を引いているようだ。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 22回生(昭和49年卒業)村山桂一先生 |
海星同窓会の皆様、いかがお過ごしでしょうか。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 16回生(昭和43年度卒)高山敬一郎先生 |
時が立つのは本当に早いもので、私の教員生活は、この4月で31年目を迎えます。20代・30代・40代と年を重ねるたびに少しずつ変わってきた自分を思い出します。忘れもしないのは、海星に就任して2年目の秋、生徒と一緒に文化祭を立ち上げた頃が一番印象に残っています。あの時、西校舎3階端の教室で「文化祭」への思いを聞いてくれた諸君は、もう40代の働き盛りのお父さんになっているのでしょうね。あの時、大学受験を目前に控えながら、龍を作ってくれた諸君も、家族のため社会のために頑張っていると思います。最後の龍の設計図は残っているはずですが、実物は朽ち果てました。懐かしく楽しい想い出の日々でした。30代は陸上部顧問として、7年頑張りました。京都の都大路を海星の選手が走るのが夢でしたが、2時間30分の壁を破ることは出来ませんでした。40代は環境ボランティア部を立ち上げました。海外研修の体験から海星にボランティア精神を復活させたかったからです。この10年の間に阪神大震災もあり、ボランティア活動が注目をあびましたが、部の活動を軌道に乗せるのに苦労しました。「環境」「福祉」「国際交流」をスローガンに環境問題の学習、空き缶や古切手・テレホンカードの回収、施設訪問などを主な活動としました。4年前に四日市南ロータリーの協力によりインターアクト部としての活動が加わり、「国際交流」の活動が強化されるようになりました。ユネスコの世界寺子屋運動の支援を主な目的に「環境ボランティアウオーク」を始め、今年は第4回目になります。5月25日(土)に実施しますので、興味のある方は是非参加してください。ささやかですが、現役の海星在学生と教職員そして同窓生との交流の場になっています。まだ40人前後の参加しかありませんが、将来は海星の大きな行事に成長することを願っています。 「21世紀の海星に思う」というテーマをいただきましたが、我々を取り巻く環境は厳しく、明確なビジョンを提起できるような状況ではありません。ただ、海星の建学の精神を中心にし、地域社会との関係を大切にすることが重要だと考えています。先に挙げました「環境ボランティアウオーク」のような行事が発展していけば、微力ではありますが、海星の生みの親であるヨゼフ=カラサンスの精神を生かすことが出来るのではと思います。2年前より林先生にバトンタッチして、現在は側面より協力しています。現在は50代に入り、高校3年生の学年主任として学年をまとめ、生徒が笑顔で卒業式が迎えられるように頑張っています。わが海星を取り囲む状況は厳しいと言われますが、一人の教員としては目の前の生徒一人ひとりを大切にしていくことがすべてです。一番苦しい時が、新しく生まれ変わるチャンスということもいえます。50年近くの伝統を生かして、「知恵」をしぼり、「勇気」をもって進んでいけば、「21世紀の新しい海星」が見えてくるのではないでしょうか。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 第18回生(昭和44年度)山口正之先生 |
本校を卒業して32年、本校で教鞭を執ること25年。この間、いろんな変遷がありました。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 増井 宣之 先生 |
教師になろうと決意したのは、中学3年の時でした。たまたま校内合唱コンクールの指揮者に選ばれたのが、今の人生のスタートでした。その時は、わけ分からないままやりましたが、当時の級友にも恵まれ、合唱コンクール当日の演奏は最高のものでした。この音楽を通じた感動をもっと多くの人に伝えたく、私の音楽教師への道はスタートしました。 |
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「21世紀の母校海星を想う/の現教育場職員室から」 | 7回生(昭和34年度卒)岩間 央先生 |
昭和39年より奉職させていただき、皆様に支えられて今日まで大過なく勤めさせていただくことができました。この間、感じたことは健康であることの大切さであります。思い出としては、野球部の甲子園初出場であります。楽しみは卒業されていく諸兄への期待であります。現在13,000以上のOBが誕生しております。時折OBの訃報の知らせがありますと、学生時代の姿を想い出しては淋しい思いがします。本校の教育精神をもって、強い精神力、強い身体を維持され、ご活躍されることを望みます。自らも心して頑張っていくつもりです。OBの皆様、母校の益々の発展にご尽力下さいますよう、お願い申し上げます。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 41回生(平成5年卒業)上田周平先生 |
「思いやりある知的国際人」 海星の教育が目指す理想の人間像です。言葉というものは、その一つ一つが奥行きと広がりとを持つものですから、この「思いやりある知的国際人」という言葉についても、様々な理解・解釈があるのではないかと思います。そしてまた、様々な理解・解釈が存在しうること、そのこと自体にも意味があるのではないかと思います。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 9回生(昭和36年卒業)三林泰夫先生 |
父は動物の医者をしていた。父の書斎には横文字のむつかしい書物が並んでいた。小学校の頃、何もわからないままに、専門書をパラパラめくったりしていた。その頃から漠然と外国語に興味を持った。小六の時にNHKの基礎講座を聞き始めた。そのころカトリック教会にテニアン神父さんがいて、よけいに英語を含めて、アメリカという国に興味をおぼえた。
四日市に海星という高校があり、外国人の神父さんが英語を教えてくれるということを聞き、迷わず海星を選んだ。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 渡辺 芳教 先生 |
教師になって今年で36年になります。初めの頃はまさか三重県の人になるとは思いませんでした。振り返ってみるといろんな事(担任、生徒指導、クラブ顧問、進路指導など)が次々と思い出されます。数字を扱うのが好きで早くから進路に係わっていました。今のような進路の手引きは保護者からの依頼で始めてもう二十数年になると思います。その後、趣味がこうじて野球部の戦いぶりをデ−タなどから見ています。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 川村 浩晏 先生 |
私が海星に赴任した年は、東京オリンピックの翌年で、日本が高度成長の幕開けを迎えようとしていた頃でした。カラーテレビがようやく普及し始め、一般家庭では車はまだまだ高嶺の花でした。今はどうでしょう! 大学生が車を乗り回し、小学生でさえも携帯電話を持たないと格好がつかない時代です。「金と物」中心で温かみのない味気ない世の中になってしまったように思います。それと共に教育現場も大きく変わってきています。 [現在の授業の様子] [授業の中で感じること] 毎時間、授業以前の問題にかなり時間を割かなければならないのが現状です。時として、気力が萎えそうになることがありますが、ここで妥協をすれば海星らしさを放棄することになる… と思いながら、意固地になって昔ながらの授業を続けています。数年後には彼らも社会人となり、何れは一家の大黒柱としてやってゆかなければならないのですが心配でなりません。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 小津 清貴 先生 |
ホームページを開いてくれた諸兄は、師走多忙の中、元気に活躍されていることと思いを馳せ乍ら、請われるままに近況を綴りました。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 烏田 信二 先生 |
同窓会の皆様、こんにちは。私は、卒業生ではなく、三重県の出身でもないのですが、ご縁があって海星に勤め、6年目になります。この地にもようやく慣れ、「住めば都」と思えるようになりました。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 大庭 明 先生 |
個の尊重 今、学校教育がどうあるべきかという議論がいろいろなところでなされております。週休2日制の問題が議論を呼び、それに伴って教育というものが新たに見直されてきています。時代が変わっても、教育というものの本来のあり方は、どのような生徒であっても、1人1人の生徒が大切にされ、1人1人が持っている能力を教師が引き出していくことであると思います。人によって能力が異なっていますが、その異なりを、指導する者が見極め、1人1人に合った対応をしていくことであると思うのです。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 伊藤 仁 先生 |
楽しい仕事 毎日働き続けることはなかなか大変なことであります。 学校とは集団教育の場です。一人の生徒に一人の教師がついているのではありません。人間ですから必然的に“好きな教師”“嫌いな教師”や“いい生徒”“いやな生徒”という気分が生まれます。でもさまざまな年齢層の教師集団といろいろな人間的感情の入り乱れる中でこそ集団教育の良さが発揮できるのでしょう。今年も海星の学び舎からたくましく成長して巣立っていく男の子を見送ることができそうです。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 倉田 純夫 先生 |
御無沙汰しています。卒業生の皆さん、如何お過ごしでしょうか? この様な情況のもと、今年の6月頃、突然卒業生(昭和57年3月卒業)から電話がありました。 話は最後になります。“担任を酒の肴に”話題が弾む様に2時間程で退席しようと思ってましたが、 |
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「教育の現場・職員室から」 | 坂本 孝 先生 |
平和を想う 世界が戦争の渦に巻き込まれた激動の20世紀が終わり、新たな平和が期待される21世紀が始まった途端、9月に世界中を震撼させる例のテロ事件が起こった。信じられない光景に、この時ほど平和への切なる願いを感じたことはなかった。その2001年度、3月に海星高等学校第50回目の卒業生を送り出し、それぞれが自分で選択した新たな人生を進むことになった。この21世紀の初めの大事件の記憶は決して忘れることはないと思うが、卒業した彼等のうちの幾人かは、今後の平和のために尽力し貢献する人々の中に含まれるような人生を歩まれることを心から期待している。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 北村 晧倫 先生 |
動き始めた「海星」 海星にお世話になり、はや三十年。今振り返ってみますと、先輩の先生方を目標に「死に物狂い」「必死」という言葉がぴったりの毎日でした。教師である限り教科担任業務は当然のこと、同時に伝統ある野球部の部長、三重県高野連理事、学年主任、生徒指導部長と様々な分野の業務をこなし、現在に至りました。これも偏に学園関係者の皆様方のご支援、ご協力のお陰と心より感謝いたしております。 しかしそれは別として、全くと言っていいほど動きのなかった本校も、最近やっと動き始めました。学校長自ら早朝の校門に立ち、登校する生徒を指導する。さらに早朝の課外授業を行う等、頭の下がる思いがいたします。当然のことながら職員室の雰囲気も変わり、若い先生方も生き生きとして充実した教育活動を行っているように見受けられます。生徒達も雰囲気の変化に敏感に反応し、勉学にクラブ活動にと緊張感のある生活を続けております。また生徒会活動も指導力のある生徒が中心になり、理想的な学園をめざして活動しております。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 田中 やよひ 先生 |
私の選んだ仕事は「先生」 一番前の生徒が笑顔で話しかけた。 私は教室の小黒板に次のような次のようなことを書いている。「守って下さい決められたことは。協力して下さいみんなの為に。努力して下さい自分の為に。」と。これは教室が替わる度に必ず書き続けている私の基本の気持ちである。生徒達は無視しなければいつも目にすることになる。「基本があれば1を100にすることだってできる。」と言ったのは2002年ワールドカップ日本代表中田英寿の言葉であるが、確かにそう信じたい。大事なことは人間としてやるべき基本的精神は不変であり、考える正義も同様であると思う。 朝7時に学校に着いてから、部活も終わり学校を出るのはやはり夕方の7時前になってしまう。1日の半分を私は学校にいる。いつの間にか教師という仕事が「人生」になってしまったと感じる。自分の部屋の窓・カーテンを開けるように教室で同じことをやり、放課後は大黒板に毎日違う内容を板書する。この言葉のいろいろを楽しみにしている生徒もいる。だから大きい字で元気一杯その日に合わせてメッセージを伝えるようにしている。古いタイプの教師であるかもしれないが、どんな場合も大切なことは一生懸命で話し、接することと考えている。 私の仕事は「先生」。学校という舞台で多くの可能性を秘めた少年達を主役に育てる役目をこれからも限られた時間の中で精一杯続けていきたい。 |
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「教育の現場・職員室から」 | 田中實乘 先生 |
今落ち着いて振り返ってみるに、あっという間の1年でした。これが今の私の偽らざる心境です。如何なる学園の事情とはいえ、お引き受けしたからには今日よりは明日、今年よりは来年と明るい海星の将来を念じつつ、精一杯の努力を提供して参ったつもりです。 |
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