退職された先生方

「教育の現場・職員室から」 紅林 尭樹先生 

 2015年から理科を担当している紅林尭樹と申します。
 始めて海星に来た時、生徒達に元気いっぱいの挨拶をされて、驚きとともに親しみやすさを感じたことを覚えています。 当時と変わらず、授業でも部活動でも、一生懸命な姿の生徒達を見ると微笑ましい限りです。

 さて、私は大学で「毒性学」を1つのテーマとして扱っていました。「毒」とありますが、「毒」とはどんな物をさすのでしょうか。
 例えば、フグが持つ猛毒「テトロドトキシン」は、1匹のトラフグの卵巣だけで約10人ものヒトを殺めることが可能だと言われています。 しかし、テトロドトキシンを持たないように養殖されたフグに注目すると、ストレスが増加し、仲間との噛みあいや、病気の増加が見られたそうです。 このテトロドトキシンは医療現場でも注目されています。
 同じように、鎮痛薬の「モルヒネ」。強力な作用を持つため重宝されていますが、副作用として便秘になってしまいます。 しかし、視点を変えてみると、モルヒネは下痢止めとして使用することが可能です。ですが、副作用として痛みを感じにくくなってしまうのです。
毒は、使い方によって、良い物、悪い物。薬の副作用は主作用にもなりえるのです。

 教育にも同じことが当てはまると最近感じています。 上記のように、生徒達、そして今後の海星の発展においては、様々な視点から取り組むことが重要だと考えています。
 三重県に住み始めて、教師になって、海星にきて、今年で4年目。自分らしさを大切に、海星にできることを精一杯取り組んでいきます。


「教育の現場・職員室から」 別府せい子 先生 
beppu

 大学を卒業して一年後、海星高校に来ました。それ以来二十数年、私にとっては常に居心地のいい場所でした。生徒達との出会い、授業やさまざまな学校行事、印象深いことは多々あります。中でも自分が英語科ということもあり、今年で18回目を迎えた海外研修に関しては特に思い出深いものがあります。いままでにアメリカとオーストラリアへ合わせて7回、生徒達と一緒に参加し、それぞれの土地でいろいろな経験を共有してきました。また、3年に一度行く修学旅行は、準備は大変ですが、楽しいことの一つです。
 私が好きなことは、街歩きです。国内でも海外でも新しい町を訪れるときには、地図と路線図を片手に、バスに乗ったり、電車に乗ったり、テクテク歩いたり、もちろん車で行ける範囲であれば車で走り回ったり、朝から晩まであちこち出歩いています。海外研修では、アメリカはセーラムやサンディエゴ近郊、オーストラリアではアルストンビルという小さな町に滞在しました。人々がどんな家に住み、どんな物を好んで食べ、どんな服を着、どんな日用品を使っているかを真近に見、どんなことを話題にし、興味を抱いているのかを街を歩いている間に実感し、そのうちにその町の人々の暮らしが少しずつ見えてきます。自分で出かける場合にもツアーには入らず、どこかの都市や町に何日かとどまり、必ず自分の足で街のあちこちを歩きます。
 今年度は中学校3年生の担任でもあるため、6月に北海道研修に出かけました。生徒たちにとっても印象深いものだったことと思いますが、私自身もかなり期待し、また満足のいくものでした。函館、小樽などの街を歩くことができたたからです。もちろん生徒が学習するための研修ですが、生徒のためといいながら自分でも楽しんでそれぞれの街の歴史や見どころを調べ、生徒と一緒に学年ニュースや資料作りなどすることができました。生徒以上に念入りに自由行動の計画を立てしっかり歩いてきました。
 海星に来たばかりの頃は生徒たちと友達のような関係でした。今では生徒たちとはずっと歳が離れてしまいましたが、「一緒に楽しみながら何かを経験したい」と言う気持ちはいつまでも持っていたいと思っています。もちろん、授業ではあいかわらず厳しく接するつもりですが。。。


「教育の現場・職員室から」 16回生(昭和43年卒業) 早川雅章先生 

海星高校に社会科教師として奉職して、早いもので23年+2年になりました。
+2年というのは、最初の一年間は講師であり、また平成9年度は三重大研究生として 職場を離れていた関係です。
 この間、主に世界史を担当してきましたが、たまたま学校の前が旧東海道であったことから、有志生徒と共に「海星高校歴史研究会(同好会)」を創設し、昭和56年(1981)から、街道の道標・常夜灯及び民家調査に携わるようになりました。
その関係から、追分自治会に『追分の大神宮大鳥居建立及び改造資料』が保存されていることを知り、平成3年(1991)からは大鳥居資料の解読を中心に進めてきました。
未熟ではありますが、平成5年(1993)には会報NO,1『日永の大神宮大鳥居資料目録・資料集』を出版し、その後『資料集NO,2』を平成8年(1996)、そして今年(2001)5月ようやく『資料集NO,3』が刊行できました。
 地味な活動にも関わらず、努力を惜しまなかった生徒諸君に深く感謝すると同時に、後輩がこの成果を継承してくれることを祈っています。
 個人的趣味は多い方ですが、もっとも長く続けていることが居合道です。居合というと抜く手も見せぬ早業と思いがちですが、「相手に居合わせる」ことが居合の本質で、いかなる場合でも対処できる心構えとそれを裏付ける技の修練が目的です。本身の日本刀を身体に同化させる一瞬は、他の何にも代え難い緊張感があります。来年(2002)の七段受験を控え、静と動が一体化する居合を目指して精進するつもりです。
 『大神宮大鳥居資料』及び「居合道」に関して興味をお持ちの方は、海星高校へご連絡ください。


「教育の現場・職員室から」 25回生(昭和52年卒業)玉木英明先生 

海星同窓会の皆様、いかがお過ごしでしょうか。
 月日のたつのは早いもので、私たちの世代が親になり、その子供たちが海星に入学してくる時期を迎えました。海星のオープンスクールなどで、海星出身とみられる父親が、「あれが修道院でこの体育館は東京オリンピックの年に建設されたもので…あれれ?お父さんの時代にはこんな建物はなかったぞ。」などと、誇らしげに子に語りかけている姿に出会うと、実に嬉しい気持ちになり、さらには海星の歴史の深さに改めて感慨深くなります。特に私の学生時代から懇意にしていた方たちに「とにかく、たのみますよ。」と握手と共に御子息を託される瞬間は、その責任の大きさに緊張し、さらには私たちが信用され期待されているという使命感に嬉しくもある瞬間です。
 私たちが海星に生徒として在籍していた頃から現在に至るまで、日本の社会とその中でいきていく人達の概念は、随分変わってきました。子供たちにとっては「どこにでても恥ずかしくないように」から「社会に大きく貢献する」ことを、また「大学に受かるように」から「社会で活躍するための知識を身につけるために」へ、「謙虚さと調和」から「周囲を率いてゆく行動力」へと、子供たちが社会からもとめられることは、より難度の高いものへと変化していきました。
 しかしそれと共に、周囲と比較し、がむしゃらに人間の能力と肩書きだけを追求することが、本来の人間形成の目標でないことに、ようやく日本人も気がつき始めました。繁栄と高い経済力を維持しつつ、「人間らしい」「豊かな心」「家族」とは何であるかを余裕をもって考えられる、さらに高度な知性と心をもった次の世代の人達の登場が必要な時期を迎えました。
 学力最優先の子供たちと、経済力を維持するために夜まで働き続ける日本の親たちが、夕食の団欒を共に楽しめるようになる社会、豊かな人間どうしの交わりを心ゆくまでたのしめるような社会、そんな社会をつくりあげていく人達の養成こそ、海星の21世紀の使命であると確信するのです。
 この4月、私の愚息も海星に入学いたしました。


「教育の現場・職員室から」 20回生(昭和47年卒業)沢村弘行先生 

 6年前、生徒会顧問の私のところへ高1の生徒が3人やってきて「バレーボール部をつくりたいんですが。」と申し出てきました。最初は「顧問の先生もいないし、体育館は他のクラブでいっぱいで場所もないから無理だ。」と、説得しようとしましたが、あまりにしつこく何度も申し出てくるので、ついに私のほうが根負けし、いつのまにか私が顧問になってバレーボール同好会を作ることになってしまいました。私はバレーボールの経験はありませんでしたが、幸いその3人の中に中学のとき北勢選抜に選ばれた生徒がいたので、その子を中心に練習が開始され、何とかお願いして他校との練習試合も行うことができました。そして本年度からは念願であったバレーボール経験者の教師が顧問になり、現在、厳しい練習が日々行われております。近いうちに県のベスト8、いやベスト4に名乗りをあげる日も遠くないと思います。卒業生の皆さん、21世紀の海星バレーボール部の活躍にご注目ください。


「教育の現場・職員室から」 西原 光郎 先生 
nisihara

先日、高体連に登録するために部員の名簿を作成していて、ふと手が止まってしまった。
 今年の新入部員は昭和61年か62年の生まれなのである。非常勤の時代を含めると今年で18年目になるから、この子達は私が海星に初めてやって来た時には、まだ生まれてもいなかったということになる。横浜の荒れた中学校から代わって来て、海星の生徒のおとなしさに戸惑っていた頃をちょっと思い出した。

 今日、その子達が練習が終わった後、道場で何やら大変盛り上がっている。何だとのぞいて見ると、引退したばかりの3年生に坊主頭にしてもらっているのだ。それも自分達から言い出したらしい。どうやら昨日のインターハイ予選が尾を引いているようだ。
 3年生にとって最後で最も重要となるこの大会の、初戦の相手が前年度優勝校である事がわかったのが約3週間前のことだ。送られてきた要項を一目見るなり思わずタメ息が出た。
 一生懸命練習してきた子達に、今知らせると、ヤル気を失ってしまうか、あきらめの気持ちが出てしまうだろう。かといって当時になっていきなり知らされたら…。彼らの顔が目に浮かぶようだ。考えた末に、10日前になったら知らせることにした。その10日間で、ヒサクを授ける(大した秘策もないのだが)。
 10日で技術が急に向上するワケもないが、とりあえず企業秘密ということで。当日の模様を詳しく書くには紙面が足らない。とにかく彼らは前年度優勝校を相手に、5人が5人共、すばらしい試合をしたのだ。恐れず、迷わず、ひたむきに戦っているその姿には、結果など問題ではないと思わせるに充分な力があった。選手も応援の者も一体となって戦っていた。
 奇しくも世紀の変わる2000年に入学してきた3年生。彼らは今、後輩の頭を刈りながら最高の形で、最後の役目であるバトンタッチをしているのだと思った。


「教育の現場・職員室から」 22回生(昭和49年卒業)村山桂一先生 

 海星同窓会の皆様、いかがお過ごしでしょうか。
 皆様方がそれぞれに、ご活躍なさってみえることをお聞きすることは、母校の職員の一員として大変嬉しく誇らしく感じる次第です。
 私は昭和46年に母校にお世話になり、今はなき青木庸一先生の数学に感銘を受けた一人であり、コツコツと問題を解く忍耐力と楽しさを学びました。現在は微分・積分の才子と持ち上げられ恐れられていますが、私も数学的法則の前においては脱帽しなければならないのです。ユークリッドも申しましたが、まさに「数学に王道なし」なのであります。それほど数学とは奥が深く怖いものです。
 毎日人間がその生を保つためにこつこつと食物を得て、こつこつと調理し、こつこつと食するがごとく、数学をこつこつ恐れながら愛する。これが私のモットーであります。最近の生徒は「総合的な学習」にもその力を発揮し、「総合的」に思考し、追究し、発表する力を身につけてきてはいますが、その根底となる基礎・基本事項において徹底していない点は少し残念なことです。
 IT革命においてこれほど情報力が身近に得られ、コンビニエンスを感じつつも、短絡的な生徒を造り出してはならないと、今、改めて、こつこつと「王道なし」と解くのであります。
 どうか、ご健康には留意され、益々皆様の才能に磨きをかけて下さい。皆様のご活躍母校よりお祈りしている次第です。


「教育の現場・職員室から」 16回生(昭和43年度卒)高山敬一郎先生 
 時が立つのは本当に早いもので、私の教員生活は、この4月で31年目を迎えます。20代・30代・40代と年を重ねるたびに少しずつ変わってきた自分を思い出します。忘れもしないのは、海星に就任して2年目の秋、生徒と一緒に文化祭を立ち上げた頃が一番印象に残っています。あの時、西校舎3階端の教室で「文化祭」への思いを聞いてくれた諸君は、もう40代の働き盛りのお父さんになっているのでしょうね。あの時、大学受験を目前に控えながら、龍を作ってくれた諸君も、家族のため社会のために頑張っていると思います。最後の龍の設計図は残っているはずですが、実物は朽ち果てました。懐かしく楽しい想い出の日々でした。30代は陸上部顧問として、7年頑張りました。京都の都大路を海星の選手が走るのが夢でしたが、2時間30分の壁を破ることは出来ませんでした。40代は環境ボランティア部を立ち上げました。海外研修の体験から海星にボランティア精神を復活させたかったからです。この10年の間に阪神大震災もあり、ボランティア活動が注目をあびましたが、部の活動を軌道に乗せるのに苦労しました。「環境」「福祉」「国際交流」をスローガンに環境問題の学習、空き缶や古切手・テレホンカードの回収、施設訪問などを主な活動としました。4年前に四日市南ロータリーの協力によりインターアクト部としての活動が加わり、「国際交流」の活動が強化されるようになりました。ユネスコの世界寺子屋運動の支援を主な目的に「環境ボランティアウオーク」を始め、今年は第4回目になります。5月25日(土)に実施しますので、興味のある方は是非参加してください。ささやかですが、現役の海星在学生と教職員そして同窓生との交流の場になっています。まだ40人前後の参加しかありませんが、将来は海星の大きな行事に成長することを願っています。
 「21世紀の海星に思う」というテーマをいただきましたが、我々を取り巻く環境は厳しく、明確なビジョンを提起できるような状況ではありません。ただ、海星の建学の精神を中心にし、地域社会との関係を大切にすることが重要だと考えています。先に挙げました「環境ボランティアウオーク」のような行事が発展していけば、微力ではありますが、海星の生みの親であるヨゼフ=カラサンスの精神を生かすことが出来るのではと思います。2年前より林先生にバトンタッチして、現在は側面より協力しています。現在は50代に入り、高校3年生の学年主任として学年をまとめ、生徒が笑顔で卒業式が迎えられるように頑張っています。わが海星を取り囲む状況は厳しいと言われますが、一人の教員としては目の前の生徒一人ひとりを大切にしていくことがすべてです。一番苦しい時が、新しく生まれ変わるチャンスということもいえます。50年近くの伝統を生かして、「知恵」をしぼり、「勇気」をもって進んでいけば、「21世紀の新しい海星」が見えてくるのではないでしょうか。

「教育の現場・職員室から」 第18回生(昭和44年度)山口正之先生 

本校を卒業して32年、本校で教鞭を執ること25年。この間、いろんな変遷がありました。
校長先生も、リベロ神父様、マヌエル神父様、イラオラ神父様、モンレアル神父様、ヘルマン神父様 と変わられました。
25年前、教師となったとき周りはほとんど恩師の先生方でした。その恩師の方々も1人減り2人減りと今では数人の先生方しか残っていません。
本校を取りまく状況も大きな変化の中にあります。
卒業生の数も毎年数百人単位で増え、今では、その総数もかるく1万人を超えています。これだけの変遷があるということは本校がまさしく伝統校であるからでしょう。
最近よく思うことがあります。生徒達といろんな事で対峙したとき、自分が高校生の時、先生方はどう考え、どうおっしゃってみえたかと。今までの海星の考え方、やり方はどうであったのかと、よく考えることがあります。この間、海星高校が変化してきたように、世の中も大きく変化し、本校に入学する生徒も大きく変わってきました。それだけに今まで考えられなかったことがよく起こってきます。
そんなとき今までの海星高校はどうであったか、と思い起こすのです。これも本校が伝統校であり、それだけに蓄積があるからだらと思います。
海星高校も今後10年、20年、…と年輪を積み重ねていくわけですが、私もその伝統の蓄積にひとつでもふたつでも関われるよう精進していきたいと思います。
卒業生の皆様、今後とも、本校への暖かいご理解とご指導ご鞭撻をよろしくお願いいたします。
 以上


「教育の現場・職員室から」 増井 宣之 先生 
masui

 教師になろうと決意したのは、中学3年の時でした。たまたま校内合唱コンクールの指揮者に選ばれたのが、今の人生のスタートでした。その時は、わけ分からないままやりましたが、当時の級友にも恵まれ、合唱コンクール当日の演奏は最高のものでした。この音楽を通じた感動をもっと多くの人に伝えたく、私の音楽教師への道はスタートしました。
 私は、小学3年の頃よりサッカー少年団に入団し、厳しい練習のもと、中学3年までサッカーと共に子供の頃を過ごしました。当時は運動神経もそこそこあったほうだとは思いますが、その生活から一変して、音楽の世界へと入っていきました。
 体育系の生活をしていた私にとって、音楽の世界は全く違うもので、最初は戸惑いがあり、複雑でした。しかし、いつのまにか音楽に没頭し、ありとあらゆる音楽にハングリーで、何もかもが新鮮でした。高校からはじめた吹奏楽にも夢中になり、楽しくて仕方ありませんでした。高校生活は吹奏楽部の仲間にも恵まれ、とても充実できた3年間でした。
 しかし、音楽教師になるためには、音楽教諭の免許がいるために、私は教育学部音楽科へ進学しました。しかし、大学では戸惑いの連続で、まずクラスが女性だらけで男性がいませんでした。そして、まわりは音楽だらけで、なんだか音楽大学なのか教育学部なのか分からなくなってくるような環境でした。そして、大学時代にもいろいろ心境の変化もあり、一時ミュージシャンになりたい、なんて考えたりもしました。しかし、最初の目標である音楽教師に結局落ち着くこととなりました。
 新卒の頃に勤めた学校で、先輩の先生に音楽の授業のノウハウを教えていただき、今でも十分に生かされています。海星の前に違う学校に勤めていなければ、今の授業はできなかったとつくづく思い、先輩の先生には大変感謝しています。
 海星、という学校の知識は正直ほとんどありませんでした。ましてや自分が勤めるなどは頭の隅にもまったくなかったことです。さらに、私は高校の教師になることなどは、まったく考えていませんでした。しかし、縁があってこの学校に勤めることとなり、気がつけば9年の年月が経っていました。はじめは、どうしても他校出身の私にとっては、海星は他人の学校という意識があり複雑な気持ちで、とにかくがむしゃらに日々を送っていました。ところが、今となっては自分の拠り所として、自分の居場所として海星の存在は大きく、この学校で教鞭を執れたことに感謝しております。何よりも、海星に勤めたことで、いろんな人と出会えたことが幸せを感じるところです。まだ先が長いことではありますが、今後もいろんな人との出会いを大切にしながら、教育を通じてよりよい人作りができるよう、全力で立ち向かっていきたいと思います。


「21世紀の母校海星を想う/の現教育場職員室から」 7回生(昭和34年度卒)岩間 央先生 

 昭和39年より奉職させていただき、皆様に支えられて今日まで大過なく勤めさせていただくことができました。この間、感じたことは健康であることの大切さであります。思い出としては、野球部の甲子園初出場であります。楽しみは卒業されていく諸兄への期待であります。現在13,000以上のOBが誕生しております。時折OBの訃報の知らせがありますと、学生時代の姿を想い出しては淋しい思いがします。本校の教育精神をもって、強い精神力、強い身体を維持され、ご活躍されることを望みます。自らも心して頑張っていくつもりです。OBの皆様、母校の益々の発展にご尽力下さいますよう、お願い申し上げます。


「教育の現場・職員室から」 41回生(平成5年卒業)上田周平先生 

「思いやりある知的国際人」

 海星の教育が目指す理想の人間像です。言葉というものは、その一つ一つが奥行きと広がりとを持つものですから、この「思いやりある知的国際人」という言葉についても、様々な理解・解釈があるのではないかと思います。そしてまた、様々な理解・解釈が存在しうること、そのこと自体にも意味があるのではないかと思います。
 生徒たちに「思いやりある知的国際人」って、どんな人のことを言うんだろうか? と問いかけることがあります。たいていの場合、生徒たちから返される言葉は
「飛行機に乗って世界中を飛び回るビジネスマン」とか、「英語がペラペラに喋れるような人」とか、「国際機関などで世界の人々のために働く人」とか、そんなふうなものです。もちろん、どれも、「まったくの間違い」ではないと思います。みんな「思いやりある知的国際人」であるかもしれません。
 でも、彼らが「国際人」であることは間違いないかもしれませんが「本当に知的なのか?」「本当に思いやりがあるのか?」という疑問は残ります。もしかしたら全く当てはまらないかもしれません。
 そこで僕はもう一つ、生徒たちにこんな問いかけをします。「ずっと日本にいて、日本語だけを喋ってる人は絶対に国際人じゃないのかな?」と。生徒たちの反応はまちまちです。「絶対違う!」という者もいれば、「う〜ん」と考え込んでしまう者もいます。
 もちろん、僕の答え(これが正しいとは限りませんが)はNOです。
 英語やその他の言語が使えれば、日本語を母国語としない人々とも意志疎通が可能になるわけですから、便利に決まっています。そんなことは言うまでもありません。世界のあちこちへ出かけていけば、様々な人に出会い、様々な文化に触れるわけですから、世界を理解するのに有利なのは間違いありません。
 しかし、日本語しか理解できなくたって、ずっと日本にいたって、「思いやりある知的国際人」にはなれると思います。
 衛星などを使った通信技術が発達したから。インターネットが世界を結んでいるから。もちろん、そうしたことも重要な要素でしょう。しかし、そういった点も実は大したことではないと思います。
 何が一番大切かと言ったら「柔軟な想像力」ではないかと僕は思います。地球上の、実際に自分の目では見ることのできない、人やモノたちに思いを馳せる力です。
 例えば、自分が地球に生きる60億の人類のうちの1人であるということ。
 例えば、自分の一つ一つの行動が地球の環境を変えるかもしれないということ。
 例えば、自分が生きているのとは違う文化のなかに生きている人が大勢いるということ。
 例えば、世界には自分と異なる価値観を持つ人のほうが多いのだということ。
 例えば、自分が贅沢な暮らしをしている瞬間に飢えや渇きで死んでいく子供たちが大勢いるということ。
 例えば、世界のどこかで爆弾が落とされたり、人が殺されたりしているということ。
 こんなことを常に頭のどこかに置いておいて、世界60億市民のうちの1人として、世界を良くするために、少しでも役に立とうと考え、行動する人。そんな人が「思いやりある知的国際人」なのではないかな、と僕は思っています。
 去る9月11日、アメリカでテロが発生し、その後、アフガニスタンではアメリカなどによる報復攻撃が行われました。どちらも、世界中の人々が全て「思いやりある知的国際人」であったなら決して引き起こされることのなかった事件であろうと思います。悲しくも暴力の連鎖で始まってしまったこの21世紀に、世界で最も求められる人材は「思いやりある知的国際人」に違いない、と確信しています。


「教育の現場・職員室から」 9回生(昭和36年卒業)三林泰夫先生 

 父は動物の医者をしていた。父の書斎には横文字のむつかしい書物が並んでいた。小学校の頃、何もわからないままに、専門書をパラパラめくったりしていた。その頃から漠然と外国語に興味を持った。小六の時にNHKの基礎講座を聞き始めた。そのころカトリック教会にテニアン神父さんがいて、よけいに英語を含めて、アメリカという国に興味をおぼえた。 四日市に海星という高校があり、外国人の神父さんが英語を教えてくれるということを聞き、迷わず海星を選んだ。
 21Cの海星は、あの当時のように社会が、子供が一番望んでいるものをさきどりし、提供することが大切である。 海星が地域社会をリードする学校として、きらきら輝く学校でありつづけてほしいと願っています。


「教育の現場・職員室から」 渡辺 芳教 先生 
tanaka

 教師になって今年で36年になります。初めの頃はまさか三重県の人になるとは思いませんでした。振り返ってみるといろんな事(担任、生徒指導、クラブ顧問、進路指導など)が次々と思い出されます。数字を扱うのが好きで早くから進路に係わっていました。今のような進路の手引きは保護者からの依頼で始めてもう二十数年になると思います。その後、趣味がこうじて野球部の戦いぶりをデ−タなどから見ています。
 さて、今回は同窓会からの依頼"海星のいま、あした"なので、私が思っていること、感じていることを少しあげてみます。
ここ数年もの間、いやこれからも少子化は続いていきます。これは海星を含めて私学の存在が問われていると思います。この厳しい少子化の時代を乗り切るためには特定の人だけでなく、全職員がそれぞれの立場でいかにすべきかを真剣に考え実践すべきです。私は海星を第一志望として入学してくれた人達(特に推薦入学者のことを)を大切にし、その望みの実現をはかる事を第一とすべきです。海星に入学した人のほとんどが大学進学を希望しています。その希望をかなえるためには生徒だけでなく教師も今以上のガンバリが必要と思います。進路では新しい取り組み(学力到達度テスト、全員参加の模試など…)が始まっています。
 高校生活には勉強だけでなく部活も大切です。一生は一回だけ、高校時代も一回だけです。長い人生のうちで高校三年間はその人の人生を決めるのに大切な期間だと思います。途中からでも良い。ぜひクラブに入りましょう。
 次に、海星高校はミッションスク−ルなのだから、もっと、カトリック校の特徴を前面に出すべきです。キリスト教の精神「愛」は平たくいえば友人(隣人)思いやり、人を大切にする気持ちです。カトリックはおとなしいと思います。もっと積極的に行動(キリスト教の精神の実践)すべきです。私が初めて海星にきたとき一番ビックリしたのは、カトリック校なのにあまりにもその雰囲気が無かったことです。最近は少しは変わってきていますが…。まだまだ不十分です。
 入学した人達の希望(大学進学を中心に)の実現を100%にできるだけ近づけることと、海星にいる間にキリスト教の精神である人の対する思いやりを体感することでしょう。


 
「教育の現場・職員室から」 川村 浩晏 先生 
Kawamura

 私が海星に赴任した年は、東京オリンピックの翌年で、日本が高度成長の幕開けを迎えようとしていた頃でした。カラーテレビがようやく普及し始め、一般家庭では車はまだまだ高嶺の花でした。今はどうでしょう! 大学生が車を乗り回し、小学生でさえも携帯電話を持たないと格好がつかない時代です。「金と物」中心で温かみのない味気ない世の中になってしまったように思います。それと共に教育現場も大きく変わってきています。
 私は今も柔道の授業を続けていますが、今から挙げることは、柔道や体育に限ったことではなく、今の若者の気質がよく現れていると思います。

[現在の授業の様子]
*正座の時、殆んどが両膝をくっつけて座る。(女子校ではアグラが多いらしい? 男女逆転時代?)
*柔道着の畳み方、帯びの締め方を覚えるのに1時間を要する。(生活習慣の変化。 日本人?)
*後ろ受身では頭を打ち続け、前受身では首が鞭打ちになりそうになる。(受身の練習で怪我をする?)
*毎時間、係りが携帯電話がどっさり入った袋を持ってくる。(袋の中で鳴ったり震えたり、みっともない!)
*ちょっと甘くすれば、10名前後の見学者が出る。(基本的生活習慣の欠如。授業を舐めている!)

[授業の中で感じること]
*正座の姿、挨拶:  (男性ホルモンの欠如、女性主導の時代? 男としてのプライドが全然無い。)
*ストレッチ・トレーニング・受身: (気力・体力の低下、なぜ必要かを考えない「やらされ人間」の増加。)
*投げ技・固め技: (イメージが湧いてこない。理論の理解力と研究心の欠如。応用が利かない。)
*固め技の試合を通して: (簡単に諦め、粘りが無い。チャンスを生かせない。勝ちへの拘りが薄い。)

 毎時間、授業以前の問題にかなり時間を割かなければならないのが現状です。時として、気力が萎えそうになることがありますが、ここで妥協をすれば海星らしさを放棄することになる… と思いながら、意固地になって昔ながらの授業を続けています。数年後には彼らも社会人となり、何れは一家の大黒柱としてやってゆかなければならないのですが心配でなりません。
 この現状は彼らに責任はないんです。周りの大人たちが悪いのでしょう。最近、町起こしの一つに「昭和60年代への回帰」が話題になっていますが、当時の社会(家庭)はどうだったのでしょうか! 多分、家庭内では「オヤジの権威」が保たれ、「学校や地域の教育力」がまだまだ残っていたのじゃないかと思います。ただ、当時は社会全体が希望に満ち、活気がありました。今はどこを向いても閉塞感に覆われた大変な時代を迎えていますが、苦しい時にこそ「家庭の躾や学校教育」が大切ではないかと思います。これからの日本を背負っていくのは子供達です。我々大人には子供達を守ってゆく義務があります。まず、大人が子供達としっかり向き合えるような立派な生き様を見せることが先決でしょう。
 私自身、教師生活も後僅になってしまいましたが、最後まで諦めず彼らと接していくつもりです。
 これから家庭を持つOB諸君、子育て真っ最中の諸君、まだまだ遅くはない! 立派な生き様を女房や子供に見せよう。そして子供達をしっかり守ってやってください。


「教育の現場・職員室から」 小津 清貴 先生 
ozu

  ホームページを開いてくれた諸兄は、師走多忙の中、元気に活躍されていることと思いを馳せ乍ら、請われるままに近況を綴りました。
 校舎と管理棟の間に植えられている七、八本の南京櫨の樹が真赤になると海星の秋を知り、白い櫨の実に小鳥が鋭い鳴き声で啄ばみに来ると冬の訪れを知ります。ところが今年は毎年の様変りとは少しばかり異を呈していました。二週間程時計が狂ったように、例年の世相の動きとは先に、何かを追うように世話しく変化してしまったのです。十二月の十日頃に芝草の上に赤い絨毯を敷くと、海星にクリスマスの到来を告げるのが例年の暦だったからです。木々の姿を不可思議なものと眺めていてふと吾に返ったら実は、私ももう三十八年程海星に勤めていたことに気付きました。毎日毎日を追いかけられるように繰り返してきて、自分の歩いてきた道程がどれ程に長いものであったのか分っていなかったのです。本当は余り知りたくないと言った方が正しいのかも知れません。送り出した多くの先輩諸君の時もそうであったのですが、若い躍動するエネルギーの真只中にあると、何時も自分もその内の一人であると勝手に解釈し振舞っているからなのだと思います。このような「偉大なる錯覚」も、紅葉のごとく過去の思い出が散り鏤められていてなかなか乙なものです。そして周りの変る様に心留めた時は、もう定年が目の前にやって来ていたというような心境にいるのが今の私なのです。
 御年輩の方は御存知だと思いますが、海星の校庭は実に緑多い場でもあるのです。一昔前は大きな桑の木もあって、夏場には真っ赤な実を結んでいましたし、秋には椎の実も大粒の甘い実を私達に呉れました。カラサンス館の建造で木の場所は移動しましたが、桜にしろ、紅葉にしろ懐かしく思い出される方も多いことと思います。通い慣れた海星学園の学校生活の中で、格別注意を払っていなくても、見慣れた校庭の木々は意外に印象に残っていることでしょう。どうか何かの機会で海星に関わりあることに触れられましたら、若い木々を想い返してください。今は随分大きく成長していますし、皆様の来校を待っていることと思います。国道を走って追分の一の鳥居を見ると、そこはもう海星の庭同然です。懐かしい神父様の話しに耳を傾けると、まるでタイムマシンで過去に遡ったような気持になれます。学生服であったあの高校生の時を思い返すべく、是非立ち寄って頂きたく思います。もし校内で頭髪に白いラメを入れた青年を見つけたら声を掛けてください。「オヅの魔法使い」が歩いているかも知れません。「ハリー・ポッター」の世界のように!


「教育の現場・職員室から」 烏田 信二 先生 
karasuda

 同窓会の皆様、こんにちは。私は、卒業生ではなく、三重県の出身でもないのですが、ご縁があって海星に勤め、6年目になります。この地にもようやく慣れ、「住めば都」と思えるようになりました。
私にとっての海星の印象は、「ゆったりとしていて、寛容」「勉強・スポーツ何でもあり」というところです。すばらしい伝統だと思います。「ゆとり」があるということは、競争社会の荒波から生徒たちを守り、ありのままの自分を見つめることになると思います。「何でもあり」ということは、それぞれの生徒が自分の「良さ」を見つけ、活躍できる場があるということだと思います。
卒業生の皆様が培って下さったこの宝を大切にしながら、一人一人の生徒に接していきたいと思っています。現在、在学中の生徒たちも皆様と同様、「海星に来て、良かった。」と言ってくれるよう努力して参ります。


「教育の現場・職員室から」 大庭 明 先生 
ooniwa

個の尊重

今、学校教育がどうあるべきかという議論がいろいろなところでなされております。週休2日制の問題が議論を呼び、それに伴って教育というものが新たに見直されてきています。時代が変わっても、教育というものの本来のあり方は、どのような生徒であっても、1人1人の生徒が大切にされ、1人1人が持っている能力を教師が引き出していくことであると思います。人によって能力が異なっていますが、その異なりを、指導する者が見極め、1人1人に合った対応をしていくことであると思うのです。
  海星高校も、これからも今までにも増して1人1人が大切にされ、1人1人の能力が引き出され発揮させられていく学校として認められていって欲しいと思います。又、世界的視野を持った生徒が多く輩出され、与えられた責任を果たし、世界を舞台に活躍して欲しいと思います。


「教育の現場・職員室から」 伊藤 仁 先生 
itou

楽しい仕事

毎日働き続けることはなかなか大変なことであります。
時には体調がすぐれないこともありますが、朝教室に入って生徒の笑顔に接すると自分の元気を回復できるから不思議です。同じ学校に長年勤めていて間違いなく年齢を加算しているにもかかわらず、三年周期でより若い生徒諸君のエネルギーを貰い受けることができるわけですから教師の仕事はハッピーなのでしょう。
 いまから思うと新米教師時代の授業やHR運営にはただただ恥ずかしいことが多いのです。やはり人間相手の職場で長年経験を積むことは貴重なのだということがわかってきます。しかし新米教師時代の“熱い思い”は若い生徒には必要なことなのでしょう。お隣に新しく着任された若い先生の周りに集まった生徒の生き生きした表情を見るにつけ「いいなー」と羨ましくなります。

 学校とは集団教育の場です。一人の生徒に一人の教師がついているのではありません。人間ですから必然的に“好きな教師”“嫌いな教師”や“いい生徒”“いやな生徒”という気分が生まれます。でもさまざまな年齢層の教師集団といろいろな人間的感情の入り乱れる中でこそ集団教育の良さが発揮できるのでしょう。今年も海星の学び舎からたくましく成長して巣立っていく男の子を見送ることができそうです。


「教育の現場・職員室から」 倉田 純夫 先生 
Kurata

御無沙汰しています。卒業生の皆さん、如何お過ごしでしょうか?
 早いもので私が海星に奉職して35年が過ぎようとしています。少々“ボケ”も始まり(日本史の授業中、年号・人物・事件名が突然消えてしまって出てこないなど)体力の衰えも感じています。でも定年まであと僅かだからということで、最後の知力(?)、体力を振り絞って頑張っています。

 この様な情況のもと、今年の6月頃、突然卒業生(昭和57年3月卒業)から電話がありました。
「先生、如何お過ごしですか。もうじき定年でしょう。その前に久しぶりに同窓会を開いて労をねぎらいましょう」という内容。電話の主は卒業以来約20年間会っていない生徒で、その声を聞いて懐かしさが込み上げてきました。同窓会は8月13日に津で5時から開くということで、その日を待ち兼ねる思いで当日参加しました。参加者は23名中11人で皆んな38歳の中年の「おっさん」になっていたけど、殆ど当時の面影を残しておりました。激変(体型的に)したのは結局、もと担任の私だけでした。お盆の頃であり、家族サービスで忙しい中、時間を割いて参加してくれて、話は大変盛り上がりました(職業もいろいろで、銀行マン・大企業の技術者・獣医・会社経営・老舗料亭の旦那〈この日の会場提供者〉・営業マンなどで、内容は多岐にわたり、さらに海星高校現在のクラブの活躍、これからの海星の在り方についてetc.)。そんな話題の中で子供達に話も出ました。そこで私は海星の一職員として、男の子は必ず海星中高へ進学させる様、しっかり要請しておきました。

 話は最後になります。“担任を酒の肴に”話題が弾む様に2時間程で退席しようと思ってましたが、
結局4時間も居座ってしまい、皆んなと一緒に津駅に送ってもらうことになってしまいました。


「教育の現場・職員室から」 坂本 孝 先生 
sakamoto_t

平和を想う

世界が戦争の渦に巻き込まれた激動の20世紀が終わり、新たな平和が期待される21世紀が始まった途端、9月に世界中を震撼させる例のテロ事件が起こった。信じられない光景に、この時ほど平和への切なる願いを感じたことはなかった。その2001年度、3月に海星高等学校第50回目の卒業生を送り出し、それぞれが自分で選択した新たな人生を進むことになった。この21世紀の初めの大事件の記憶は決して忘れることはないと思うが、卒業した彼等のうちの幾人かは、今後の平和のために尽力し貢献する人々の中に含まれるような人生を歩まれることを心から期待している。
『アシジのフランシスコの祈り』の中にも、こう記されている。「あなたの平和のためにわたしを役立たせて下さい」と。  忌まわしい多くの過去は、輝かしい多くの未来によって変えられるのではないか、と考えることもできる。その未来のために海星出身の多くの人々が貢献できる社会であれば、こんなに喜ばしいことはないと思われる。


「教育の現場・職員室から」 北村 晧倫 先生 
kitamura_t

動き始めた「海星」

海星にお世話になり、はや三十年。今振り返ってみますと、先輩の先生方を目標に「死に物狂い」「必死」という言葉がぴったりの毎日でした。教師である限り教科担任業務は当然のこと、同時に伝統ある野球部の部長、三重県高野連理事、学年主任、生徒指導部長と様々な分野の業務をこなし、現在に至りました。これも偏に学園関係者の皆様方のご支援、ご協力のお陰と心より感謝いたしております。
 さて、十数年前までの本校は、先輩諸氏が築き上げて下さったカトリック学校としての校風、人間教育・躾教育等が高く評価され、本校受験者も多く「順風満帆」といったところでした。試合・会議等では絶えず羨ましがられ、まったく他校の追随を許さないといった状況でした。しかし、出生率の低下による高校生の減少に直面し、本校の体質も大きく変化しました。過去の実績はあるものの、ここ数年は世の流れには目も触れず、ただ「過去」を踏襲してきただけのように思われます。この間、他の私学は生き残りを賭け、「一企業」として必死の努力を続けていました。生徒減少への対策として男女共学・冷暖房完備の教室・スクールバス運行等、現代高校生気質を逸早く見抜き、すばやく実行に移したのです。さらに学習塾と繋がりを持ち、優秀な生徒を入学させる等、手段の一つとして結果に結びつけております。
 本校は現在でも校内・外に於ける学習活動では決して他校に引けを取るようなことはありません。生徒達も与えられた環境の中で精一杯の努力をしておりますが、ふと漏らす学習環境に対する不満の声を聞くと、やはり寂しい思いがいたします。

 しかしそれは別として、全くと言っていいほど動きのなかった本校も、最近やっと動き始めました。学校長自ら早朝の校門に立ち、登校する生徒を指導する。さらに早朝の課外授業を行う等、頭の下がる思いがいたします。当然のことながら職員室の雰囲気も変わり、若い先生方も生き生きとして充実した教育活動を行っているように見受けられます。生徒達も雰囲気の変化に敏感に反応し、勉学にクラブ活動にと緊張感のある生活を続けております。また生徒会活動も指導力のある生徒が中心になり、理想的な学園をめざして活動しております。
ここ数年の間、負けず嫌いな自分は「海星の将来」を考え、いらだちを覚え、悶々とした日々を送ってきましたがようやく少しずつではありますが、確実に前進し始めました。私自身描いていた「海星」が現実に近づきつつあります。本学園の改革にとって今が最も大事な時であり、全職員のさらなる意識の高揚と実行力が不可欠な要素となります。二十一世紀に向けて動き始めた「海星」。微力ではありますが、職員の一人として自分なりに全力投球し、納得できる人生としたいと思っております。どうか卒業生の皆様もいつまでも「海星」を温かく見守って下さいますようお願いいたします。


「教育の現場・職員室から」 田中 やよひ 先生 
Tanaka_y

私の選んだ仕事は「先生」

一番前の生徒が笑顔で話しかけた。
「信じられない。それは無いでしょう。」
これはホームルームの一場面である。総合学習で将来の職業について小論文を書く練習の前に、まず担任の私がどうして教師になったのと話を始め、第一志望校に失敗しなければ今頃は案外「お母さん」と呼ばれていた………との最中に生徒が一声入れたのだ。そしてクラスの生徒達は声をそろえて、よっぽど3年B組やよひ組長の存在が強烈すぎるのか、別の姿は考えられないと応えた。これには複雑な感情と一瞬の喜びも感じた。学校という舞台で、教師と生徒は主役でもあり、脇役でもある。思えば長い間「先生」という役を演じ続け、台詞は台本なしで、さらにアドリブありでできる程になった。でも時々私の前に個性豊かな十代のルーキーが登場して悩むこともある。

 私は教室の小黒板に次のような次のようなことを書いている。「守って下さい決められたことは。協力して下さいみんなの為に。努力して下さい自分の為に。」と。これは教室が替わる度に必ず書き続けている私の基本の気持ちである。生徒達は無視しなければいつも目にすることになる。「基本があれば1を100にすることだってできる。」と言ったのは2002年ワールドカップ日本代表中田英寿の言葉であるが、確かにそう信じたい。大事なことは人間としてやるべき基本的精神は不変であり、考える正義も同様であると思う。
 海星高校は伝統を重んじるカトリック軽暖思考であり、進学校である。だからといって大学合格率の数字だけを追いかける現実には使命は感じるが、心の中で摩擦が生じる時もある。しかし来年の卒業式には私の生徒達が合格者としての新しい出発を心から願っている。

 朝7時に学校に着いてから、部活も終わり学校を出るのはやはり夕方の7時前になってしまう。1日の半分を私は学校にいる。いつの間にか教師という仕事が「人生」になってしまったと感じる。自分の部屋の窓・カーテンを開けるように教室で同じことをやり、放課後は大黒板に毎日違う内容を板書する。この言葉のいろいろを楽しみにしている生徒もいる。だから大きい字で元気一杯その日に合わせてメッセージを伝えるようにしている。古いタイプの教師であるかもしれないが、どんな場合も大切なことは一生懸命で話し、接することと考えている。
 この夏休みに四人で食事をする予定が入った。二人は私が顧問をしているバドミントン部のふたつ違いの先輩と後輩であり、もう一人とは同級生でその時の担任は私であった。そして今年大学1年生となった後輩にとって、先輩の一人は大学・学部・学科が同じである。彼らは二十歳前後の若者達であるが、二十数年前に投げたボールをしっかりキャッチしてくれた教え子達がそれをさらに大きく違った形で返球してくれることを信じ、楽しみにしている。

 私の仕事は「先生」。学校という舞台で多くの可能性を秘めた少年達を主役に育てる役目をこれからも限られた時間の中で精一杯続けていきたい。


「教育の現場・職員室から」 田中實乘 先生 
tanaka

 今落ち着いて振り返ってみるに、あっという間の1年でした。これが今の私の偽らざる心境です。如何なる学園の事情とはいえ、お引き受けしたからには今日よりは明日、今年よりは来年と明るい海星の将来を念じつつ、精一杯の努力を提供して参ったつもりです。
 しかしながら、正直申しますと見えてきたのは本学園が抱える問題点と管理職という立場のあり方でした。人はその性故に他人の欠点や短所は探そうとしなくても見えてきますが、逆に長所は探そうとしてもなかなか見えてこないのが常です。残念ながら私の性もそれに違わず本学園が抱える重大な問題点を暴き出しました。
 私自身が担任をしていた頃、たびたび保護者の方々から「家の子をやる気にさせるにはどうしたらよいのでしょう、私の言うこと聞きませんのでお願いします」という無責任なお願いをされたことがたびたびあります。この様なとき、私は何時も「あなた自身が自らを高める目標を持ち、その実現に向けてやる気を起こせば、そのことを敏感に受け止めた子供は自然にやる気を出します」とよく忠告したものです。既に家庭を持ち子育てに携わってみえる方ならおわかり頂けるかと思いますが、正に「子は親の背中を見て育つ」のです。もちろん学校では「生徒は先生の背中を見て育つ」のです。更に言えば「教師は管理職の背中を見て育つ」(この様な教師では困るのですが)のです。もうおわかりですよね、先生方個々の優れた能力は認めざるを得ませんが、その割には対生徒に見せる背中が貧弱すぎるのです。これではいくら努力しても無駄骨です。頼りになる大きな背中、安心してついて行ける背中、思いやりに溢れる背中、優しさの滲み出る背中、謙虚さが伝わる背中、即ち、万人への愛情に溢れた背中が求められるのです。一人一人の先生方にこの様な背中が備わったとき必ず海星は変わるのです。このとき初めて建学の精神・教育方針を求めて新しいスタートが切れるのです。親が変われば子は変わり、先生が変われば生徒が変わり海星が変わるのです。「目指すはこの一点なり」です。
 最後になりましたが、希望に満ち溢れた海星のあしたを夢見つつ聖ヨゼフ・カラサンスの教育事業への熱烈な思いをご紹介することにより、保護者の方々並びに同窓会の方々を含め先生方一人一人への思いに代えたいと思います。……「教育事業とは最も尊敬すべきものであり、最も高尚なものであり、最も功徳をもたらす事業であり、最も有利な効果を生じる仕事であり、最も有益な仕事であり、最も必要な事業であり、最も自然な仕事であり、最も合理的なものである。従って、天からその使命を戴いている者にとって教育の事業は最も楽しいものであり、又この事業を後援し、助ける者は最も褒められるべきものである。」……エンリケ・リベロ著「聖ヨゼフ・カラサンスの生涯」より