????

第6走者
星野良之
(33回生)
↑会社の同僚
第5走者
岡田嘉純
(37回生)
↑同窓会役員
第4走者
麻生正
(15回生)
↑兄の友人
第3走者
伴良仁
(38回生)
↑同級生の弟
第2走者
中川光輝
(37回生)
↑同級生
第1走者
瀬川岳彦
(37回生)

????

第51走者
奥野瞬
(56回生)
↑友人
第50走者
東倉広樹
(46回生)
↑同級生
第49走者
塩月真人
(46回生)
↑同級生
第48走者
坂倉伸吾
(46回生)
↑同級生
第47走者
中西康仁
(46回生)
↑柔道部の同級生
第46走者
伊藤有紀
(46回生)
↑柔道部の同級生
第45走者
酒井志生
(46回生)
↑同級生
第44走者
日向和義
(46回生)
↑恩師
第43走者
三鳥川幸治
(54回生)
↑大学院の同窓生
第42走者
水谷祥平
(51回生)
↑同級生
第41走者
小林弥大
(51回生)
↑美術部の先輩
第40走者
水野勇城
(52回生)
↑同級生
第39走者
谷英治
(52回生)
↑同級生
第38走者
中山慎太郎
(52回生)
↑同級生
第37走者
伊倉正浩
(52回生)
↑同級生
第36走者
藤田哲成
(52回生)
↑お互いがお互いの
↑お客さん
第35走者
猪子道一
(41回生)
↑同級生
第34走者
後藤大介
(41回生)
↑同級生
第33走者
堀田泰司
(41回生)
↑テニス部の後輩
第32走者
黒田誉喜
(40回生)
↑同級生
第31走者
国本明裕
(40回生)
↑同級生
第30走者
伊藤克弥
(40回生)
↑野球部の後輩
第29走者
小林正幸
(33回生)
↑野球部の先輩
第28走者
益川篤夫
(37回生)
↑JCの後輩
第27走者
北岡太輔
(36回生)
↑同級生
第26走者
伊東学
(36回生)
↑フェンシング部の先輩
第25走者
藤村貴
(41回生)
↑中学・高校の同級生
第24走者
樋尾重樹
(41回生)
↑JCの先輩
第23走者
樋口龍馬
(43回生)
↑JCの同期
第22走者
中村吉均
(42回生)
↑同級生
第21走者
杉山浩也
(42回生)
↑中学・高校の先輩,同僚
第20走者
水元篤
(43回生)
↑同級生
第19走者
亀井辰彦
(43回生)
↑同級生
第18走者
田中英則
(43回生)
↑同級生
第17走者
小林泰輔
(43回生)
↑同級生
第16走者
藤盛桂一
(43回生)
↑友人
第15走者
佐藤左恭
(39回生)
↑同級生
第14走者
岩崎敬
(39回生)
↑同級生
第13走者
竹口広泰
(39回生)
↑同級生
第12走者
佐藤嘉泰
(39回生)
↑同級生
第11走者
山西伴明
(39回生)
↑同級生
第10走者
藤村尚城
(39回生)
↑同級生
第9走者
若林和也
(39回生)
↑同級生・呑み仲間
第8走者
山浦直晃
(39回生)
↑同級生・呑み仲間
第7走者
小松和弘
(39回生)
↑小学校以来の先輩
第6走者
野崎祐介
(40回生)
↑同級生
第5走者
中澤義晴
(40回生)
↑同級生
第4走者
円谷大介
(40回生)
↑同級生
第3走者
瀬古貴之
(40回生)
↑同僚
第2走者
別保芳紀
(41回生)
↑同級生
第1走者
上田周平
(41回生)
第6走者
星野良之(33回生)
皆さんこんにちは。33回生の星野です。同じ職場の岡田さんから突然バトンを受け取り当時の記憶を一生懸命思い出しています。
思い出すことと言えば、多くの同窓生の方と同じく、「極限に追い込まれるスクワット」、「座り心地の素晴らしい合体した机&椅子」、「そこまでチェックするのか頭髪検査」といった辛く厳しかった経験と指導です(笑)
今振り返ると鍛えられた3年間だったように思いますが、当時は本当にキツかった!

卒業してから30年以上過ぎましたが、最近仕事の関係で同級生に会いました。卒業以来の再会です。ひょっとして星野君か?驚きました。私がすっかり忘れていた当時のことを彼はしっかりと覚えていました。一緒に出掛けたこと、そのときに写真を撮ったことなど。そんなことあったな、そんなことしてたんだ・・・懐かしさと新鮮さが交差した不思議な感覚でした。

懐かしい当時を振り返ることが出来ること、友人と再会し不思議な感覚を味わえること、当たり前のことですが「母校」があるから出来ること、感謝しています。
海星を取り巻く環境も大きく変化していると思いますが、「母校」の発展を心から祈念致します。

第5走者
岡田嘉純 (37回生)
みなさんこんにちは。37回生の岡田(旧姓 伊東)です。
昨年から同窓会役員の仲間に入れて頂きました。そのご縁で麻生さんからバトンを受け取りました。
わたしは1989年に6年間を過ごした海星を卒業しました。あれから27年も過ぎたんだと、このコラムを書きながら時の流れの早さを実感しています。

当時は6年間ホームクラスも担任の先生も変わりませんでした。小学校を卒業したばかりの『子ども』が、18才という『大人』に成長するまでの時間を共に過ごす訳ですから、クラスメートも担任の先生も、ある意味で本当の家族のような存在だったと思います。

6年間を通じて今でも思い出すこと、それは『スクワット』です。体力と気力の限界に挑戦、その経験は他校には無いものだったと思います(笑)
もうついていけない・・・と弱音を吐きそうになると、周りの友人からの励ましがある。
その声で頑張れたことを懐かしく思い出します。
仲間同士、お互いを支え合いながら成長する、そんな雰囲気がクラスにありました。

卒業後はなかなか母校と関わる機会がありませんでしたが、偶然、同窓会役員のお話があり久方ぶりに海星に『帰って』きました。
私たちは団塊ジュニア世代で人数も多い年代です。いまは当時と違い少子化が急激に進み、学校の生き残りも年々厳しくなってきています。微力ですが同窓会活動を通じて母校活性化のお役に立てれればと思います。

第4走者
麻生正 (15回生)
 突然本コラムに登場することになりました15回生の麻生です。
私は5年前、山下現会長に口説かれ同窓会に関わることとなり、現在広報部でホームページを担当しております。
 同窓会との関わりは、柔道部の先輩で現柔道部OB会幹事長の仲野先輩(12回生)の叙勲パーティーで山下会長と隣りの席となり「焼酎の話で盛り上がった」ことがきっかけでした。
 その後、山下会長より電話があり「会って直接話をしたい」と言われ、熱心に同窓会へのお誘いをうけました。
 それまで、母校との関わりは、柔道部OB会行事には参加しておりましたが、他の行事には参加しておりませんでした。
 サラリーマン時は転勤族で住所もよく変わっており、同窓会の会報誌や総会の案内も届いてない状況でした。ただ当時、西田前校長がJSR勤務時に仕事の繋がりがあり、母校の情報を西田さんを経由して聞いておりました。その西田さんから「JSRを早期退職し海星中学・高等学校の校長を引き受けることになった」との連絡を受けたときは驚きでした。
 私はサラリーマン時「会社人間」であった反省もあり、退職後は社会や地域に何か恩返しをしなくてはと思っていました。そんなところに山下会長からの誘いがあり、また南中2年で同じクラスであった西田さんが校長を務める同窓会のお手伝いをしなくてはとの思いで現在に至っております。
 同窓会では多くの素晴らしい方に出会い、今までの「会社人間」では知りえなかった種々の社会勉強をさせて貰っております。
 現在は地元により溶け込もうとの思いで地元の元気な諸先輩(最高齢者81歳)たちと月1度のゴルフや自治会活動、旧職場メンバーとの懇親会等それなりに刺激を受け、痴呆症の防止を日課としております。
 同窓会の諸活動を通して今、他高校にはない海星高校の良さを実感しております。

第3走者
伴良仁 (38回生)
 ご無沙汰しております。38回生の伴です。
 今回縁があり、リレーコラムに参加させていただきました。
卒業してから約20年、その間ずっと四日市市に住んでいながら一度も母校の門をくぐった記憶が無い薄情な卒業生の私ですが、仕事関係で学校の前はよく通りますので、車窓から少しづつ様変わりをしていく母校の姿を見るたびに在校当時の懐かしい記憶が蘇ります。
 皆さんと同じように、体育での地獄のスクワット・椅子と一体化した使い勝手の悪い机・なぜがハマったうどんライスカレーがけのある学食・野球部の応援で行った甲子園・生徒達のた溜まり場であった「うえきや」等々、学生時代の思い出はたくさんありますが、私にとってはクラブでの出来事、当時化学部に所属し、部室(化学室)と隣接する階段教室を放課後のアジトのように使っていたこと、仲間とともに授業とは全く関係のない無駄な実験ばかりを繰り返したこと、文化祭での公開実験で作成したソーラーバルーン(ゴミ袋で作成した熱気球のようなもの)の紐が切れ、晴天の大空に点となって飛んで消え、小さいながらも翌日の新聞記事になったことなどが、当時の顧問の先生にはかなりの心労をおかけしたと思いますが、今も鮮明に思い出される一番の思い出になっています。
 最後になりますが、成績は劣悪ながらも楽しく学校生活を謳歌できたのは、担任の倉田先生をはじめ、各教科の先生方並びに学校関係者の皆様のお蔭であると今も感謝しております。
 また、今後海星で学ばれるすべて皆様が、私達のころと同様以上に楽しい学校生活を送れるように学校が運営されることを切に祈ります。

第2走者
中川光輝 (37回生)
皆さんこんにちは。37回生の中川です。今は福岡に住んでいます。瀬川君からの紹介でリレーコラムに投稿させていただきました。瀬川君とは入学した時に席が隣だったことがきっかけで仲良くなってから、もう26年になります。お互いの結婚式ではスピーチを頼んだりという付き合いです。
さて、海星での思い出はたくさんありますが、中学三年生の夏、野球部が甲子園に出場し、声が枯れるまで大声で応援したことが印象深い思い出となっています。
仕事の関係で全国を転勤していますが、夏になるとやはり三重大会の結果が気になります。
あと、これは瀬川君と競っていたことですが、“卒業する時に何か賞が欲しいよな”ということで、2人で皆勤賞を目指して頑張りました。少し体調が悪くても「皆勤賞」目指して
鈴鹿から自転車で通学しました。そして、めでたく高校3年間出席ということで、2人とも達成することができました。
当時の学校の雰囲気は良い意味で緊張感というか、お互い切磋琢磨できる環境でした。お互いを自然と引っ張り合っていけたように思います。
今回、瀬川君からこの話があって、久しぶりにいろいろと思い出しました。
なかなか三重に帰る機会がないので残念ですが、チャンスがあれば久しぶりに海星に行ってみたいと思います。
第1走者
瀬川岳彦 (37回生)
私は平成元年3月に海星高校を卒業しました。年度では昭和64年度生。昭和最後の卒業生です。それから20年、時間が過ぎるのは本当にあっという間です。
現在はご縁があって同窓会の広報委員会を担当させて頂いております。まさか自分が卒業してから20年近く経ってから、母校に関わるとは全く予想もしていませんでしたので、とても不思議な感じがしています。また、用事で母校を訪問した際に、お世話になった先生にお目にかかったり、教室から聞こえてくる授業の様子やクラブ活動の掛け声などを聞くと、アッという間に当時の自分に戻ったような不思議な感じになったりします。そして懐かしい当時の事が頭に浮かんできます。
私は中学高校の六年間を海星で過ごしました。楽しかったこと、辛かったこと、色々とありましたが、今思うと充実した時間を過ごせたと思っています。
仲間とはお互い忙しく会う機会もめっきり少なくなりましたが、数年ぶりに集まると当時のまま、色々な話で盛り上がります。担任だった寺本先生の話題、クラブ活動で顧問の先生と一緒に学校に泊まり込んで活動したこと。体育祭の練習で私が全クラスの前で怒られたこと。仲間に助けられたこと。(そして先生や家族にも言えない話など・・・笑)
日々の仕事を忘れて時間の許す限り盛り上がる、本当に楽しい時間です。仲間はいいものですね。
そして、担任をして頂いた寺本先生には本当にお世話になりました。先生は数学の担当でしたが、私は数学が大の苦手科目。テスト前になると職員室に押しかけて色々と質問しに行きました。先生も懲りずにアドバイスをしてくれました。(多分まともな質問ではなかったと思いますが?!)お蔭で無事卒業を迎えることが出来ました。
と、話はつきませんが、とにかく母校はいいものだと感じています。
今年のGWあたりは久しぶりに仲間と集まれそうで、今から楽しみにしています。

第51走者

奥野瞬(56回生)

こんにちは。 2005年入学(平成元年の代)の奥野と申します。
この度、御縁があり卒業生リレーコラムに投稿させて頂きます。

もう10数年前になりますが、
私は海星高校は滑り止めで受験しました。
当初、男子校の海星は行きたくありませんでしたが、
今振り返ると海星高校でホンマに良かったと思います。

高校生活は、ただサッカーだけをして過ごしていました。
しかし、
2年目の夏に成績がガクンと落ち、
クラスでも真ん中下の成績で薄々と気付き始めます。
このままじゃアカンなー。と
そこで自分を見つめ直す為にも、自転車旅へ出る事にしました。
同じように自転車旅に行こうとしている友人がサッカー部におり、2人で宮城県石巻まで行きました。
この一緒に行った友人というのが、ヒデジ先生の息子です。
ご存知の方も多いと思いますが、
我らが海星高校の名物先生であるヒデジ先生の次男坊です。

この経験は、私の中で大きなターニングポイントになったと思います。
行かせてくれた親、
一緒に行ってくれた友人、
道中助けてくれる人達、
その色んな人たちの支えと出会い、御縁に感謝するようになりました。
その後も私なりに色々とありましたが、
スノーボードにおいてプロを目指した経験は、私の中では大きいです。
今回コラムを書かせて頂けるのも、スノーボードでの御縁がきっかけです。
前回投稿者の東倉さんとの出会いもその一つです。
話しているうちに、たまたま海星高校の先輩であるとわかり勝手に御縁を感じております。

私は現在、スノーボードのプロにはなれず、東京で会社勤めをしております。
東京でも海星の友人との繋がりがまだあり、
青春時代を共に過ごした友人の存在は大きいなーと最近痛感しております。
この海星での高校生活は他の学校よりも濃い時間を共有出来ると思ってます。
今年はサッカー部が選手権にも出てますし、
今後も海星高校の発展と永続を願っております。


第50走者

東倉広樹(46回生)

中学生になったらサッカーがしたい。
Jリーグが始まるほんの少し前、世の中は完全にJリーグブーム。
中学生になりサッカーをして将来はJリーガー。その頃の僕はそんな夢を見ていました。
しかし、その頃の海星中学は中体連に加盟しておらず、部活は週に1回。もちろん試合などまったくなし。
こんなん・・・、ぜんぜんあかんやん・・・。
それでもどうしてもサッカーがしたかった僕は家の庭や地元の小学校で友人とボールを蹴っていました。
そんな日が続き、中学2年の終わり頃、高校サッカー部の新しい顧問の先生が四日市中央工業のサッカー部から赴任してきた先生だと知りました。
そこでその先生に『サッカーがしたいです』と尋ねたところ、素人同然だった中学生の僕を快く高校のサッカー部に混ぜてくれました。
その先生が、現サッカー部の監督、青柳先生です。
その後、中3になり、幸運なことに海星中学もついに中体連に加盟することとなり、サッカー部もできました。
おそらく、海星中サッカー部の初代キャプテンは、恥ずかしながら僕です。(笑)
高校に入学後はもちろんサッカー部へ入部。
小学生からサッカーをしているみんなは本当にうまかった・・・。
そんな中で、朝は5時半に起きて朝練に行き、夜は9時ごろに家に帰る毎日。
今思うと大変な毎日でしたが、それでもサッカー部に所属していたおかげで、サッカー部以外にもたくさんの友達ができました。
高校卒業後は、千葉県のとある体育大学に進学。
中学高校でサッカーの面白さを青柳先生から教えていただいた僕は、大学でも4年間サッカー部に所属しサッカーを続けました。
入部後は、またまた更に周りとのレベルの違いを思い知らされましたが・・・。(笑)
大学在学中には教育実習で再び海星高校へ。
実習中もサッカー部を見させていただき、夏休みは遠征にも同行させていただきました。
今思うと、中学から約10年間、海星のサッカー部に携わらせていただきました。

そんな海星サッカー部が、この冬初めて全国選手権に出場。
僕らの世代からは考えられない快挙。
サッカー部OBとして心から誇りに思います。

海星サッカー部の皆さん。
僕らの夢の夢のまた夢だった全国の舞台で、目一杯サッカーを楽しんできてください!!
『KAISEI』のユニホームを着た集団が全国で活躍する事を楽しみにしています。


第49走者

塩月真人(46回生)

当時の自分はアホすぎて気付いてなかったのだが、30代も半ばを超えた今になって考えてみると、海星時代の私は完全なる落ちこぼれだった。入学して最初のテストでドベから2位を獲得し華々しいデビューを飾るとその勢いは止まることを知らず、その後6年間ずっとドベから20位圏内に居座り続けた。宿題なんかやったことなかったし、授業中は読んでた「花の慶次」を青井まりこ先生に没収されたし、放課後は友達と教室で悪事を働き「体育館の主」と呼ばれる用務員のオバさんに竹刀でシバかれていた。誰がどう見ても落ちこぼれだ。
それにも関わらず何故か私は自分が落ちこぼれだと思っていなかった。通常、落ちこぼれというのは学校に行くのが嫌なものだと思うのだが、私は学校が好きだった。広い農場でノンストレスに育ったフランスの美味しい牛のように、女子の目を気にしなくていい、モテを意識しなくていい環境で共に成長したクラスメイトは1人残らず個性的で面白く、毎日涙を流すくらい笑わせてもらった。それにも増して先生方が個性的で、たまに授業を中断して話してくれる痔の話とか、学生時代にゴキブリに石鹸を食われた話とかを聞くのが楽しみで、勉強が嫌いな私も授業は嫌いではなかった。そんな感じで海星はすごく居心地が良く、成績が悪いだけで自分が落ちこぼれだと思う必要などない、のびのびと成長させてくれる素晴らしい学校だった。本当に全てが最高の思い出で、大切な中学、高校の6年間を海星で過ごせたことは私の人生の宝だ。
2年くらい前に沢村先生に用事があり、海星に寄らせてもらったのだが、すれ違う生徒達がみんな、見ず知らずのオッサンである私に「こんにちは!」と爽やかに挨拶をしてくれたことが印象に残っている。今も海星は素晴らしい学校なんだろう。
ちなみに私にこのリレーコラムを回してきた坂倉は私がドベか2位を取ったテストでドベだった男である。彼が居なければ私はドベだった。本当の恩人である。彼とは今でも家族ぐるみの付き合いがある。不思議なもんだ。


第48走者

坂倉伸吾(46回生)

『くそ!めんどくせえの回しやがって。』
これは同級生である中西からコラムのバトンを頼まれた時に、思った気持ちです。
まぁしかし、同窓会ホームページという存在を知らなかった自分にとっては、これを知る良いきっかけになりました。
コラムを読んでみると、日向や志生が書いとって、むちゃくちゃ懐かしい気持ちになりました。
前出の中西のコラムにも書いてありましたが、自分も海星に六年通い、生涯の友人を手にいれました。恥ずかしい話ですが、高校の時なんちゅうのは、遊んでいたグループにすぐ名前なんかつけて仲間意識を出したりしましたよね。中西と自分がおったグループは『ファミリー』と呼んでいました。ゴッドファーザーの影響ですね、ださい。
今はファミリーの連中も、本当のファミリーを手に入れ、集まることも少なくなりましたが、集まるとばか騒ぎが出来るええ仲間です。
そんなファミリーの中に、小宮という極上のアホがおって、集まるといつも話題にあがります。
(自分はコラムのバトンを絶対に小宮に回しませんが、いつか誰かが回してくれることを期待します。)
話題は、顔が南こうせつに似とるから始まり、ヤンキーに殴られ顔が変形しとっただの、蜂に刺された事件だの、友人の結婚式の招待状に返事も出さずに結婚式に現れたりと、ファミリー会の酒の肴はいつも小宮な気がします。社会人になった今でもあいつほどの奴は見たことありません。
海星ってのは変人の宝庫やった気がしますね。
先生らも、玉木先生、沢村先生、川村先生という3担任は、そんな変人の個性を殺さず育ててくれた恩人やと思ってます。卒業式の日に、6年間の悪事をみんなで先生らに伝えた時の
『お前ら、ありがとう。よくバレやんといてくれたな。俺たちも怒るの嫌なんや。』
あのセリフは忘れないです。
色々含めて、海星時代の思い出は自分の宝です。
同窓会で男しかおらんのも良しとしよやないか。
つらつらと書きましたが、ほんまに楽しい場所やったんで自分の子供も、海星みたいな学校をええと思えるような健全な少年少女に育てたいと思います。

ドメニオレイジークラブの坂倉でした。


第47走者

中西康仁(46回生)

 海星には12歳〜18歳まで通った。この学校で生涯の友を得て、体育のスクワットで強靭な足腰を培い、高校3年間は柔道部で汗をかいた。学校周辺にある化学メーカーが放つ香ばしい臭いも懐かしく、今も同じような匂いを嗅げば海星を思い出す。海星での思い出は数えきれないほどあり、その全てが良い思い出だが、思春期を男子校で過ごした私は結婚して所帯を持った今でも、妻以外の女性と二人きりになるのは苦手である。私はそれを“男子校シンドローム”と呼んでいる。
 さて、この6年間を振り返るには3人の先生を語らずにはおれない。今はどうなっているか分からないが、当時の中高6年制はA〜C組の3クラスがあり、3人の担任が6年間変わらなかった。
 まず、A組の玉木英明先生。声優かアナウンサーのような良い声の持ち主で、高校3年生の海星祭(文化祭)で我々が出店した「銭湯」に唯一入ってくれたお客さんだ。この「銭湯」は、ドラム缶に水を入れて薪で炊いた五右衛門風呂だった。海星祭の歴史も長いかもしれないが、銭湯を出店したのは私たちの代だけだろう。校庭を見渡しながら入るドラム缶風呂は最高に気持ちよかった。
 このドラム缶風呂を持ち帰り、たまに自宅の庭で入浴しているのが、B組の沢村弘行先生だ。私は沢村先生に受け持ってもらった期間が最も長く、中学時の軽音楽部、高校1年生の米国へのホームステイなどでは本当にお世話になった。卒業後も先生とはカラオケに行き、酒をしこたま飲んだ。沢村先生は私が進学した専修大学の先輩でもあり、先生というよりも歳のはなれた兄貴のような存在だ。
 そして、C組の川村厚志先生。中学に入学して最初の担任の先生だった。川村先生は、担任というよりも柔道部顧問としてみっちり指導してもらった。柔道の試合の際には、必ず横面をはたいてもらい、気合いを入れていただいた。県大会では個人・団体ともベスト8までは勝ち進んだが、どうしても4強入りを果たすことができなかった。大学2年生の時に後輩たちがベスト4に入ったと先生から電話をいただいたときは本当に嬉しかった。
 現在、私は東京で妻と4歳の男児、今年2月に産まれた女児と暮らしている。“男子校シンドローム”の私は、産まれたばかりの赤子を抱きながら、今後どう接していくか、成長して年頃になればどう対応すればよいか、早くも思案している。長男は男子校に入れてやろうと画策している。楽しみだ。


第46走者

伊藤有紀(46回生)

海星へは高校の3年間、多度町(現・桑名市)から通った。電車で片道約1時間で、本を読むにはちょうど良い時間だった。
 四日市の中心部には弥生館・スカラ座や、ベガ・スピカ・リゲル、中映といった映画館があって、どれも小学生の頃からよく通っていた。それらを横目に四日市駅を少し歩いて内部線に乗り換える。映画館に後ろ髪を引かれつつ小さな車両に乗り込むその感じをよく覚えている。今でもあるのだろうか、追分駅のそばにTSUTAYAがあって(当時は白揚といったかな)、下校時、内部線に乗り込む前にそのTSUTAYAでレンタルビデオを借りて帰ったり、四日市で途中下車して映画館に飛び込んだりして、多度の田舎の映画好きとしては、刺激的な嬉しい毎日だった。
 学校の方はというと、不思議といろいろなことが楽しく思い出される。不思議と、なんて書くと失礼かもしれないが、第1志望の高校に落ちたのもあり、片道1時間の男子校(ここポイント)に通うのは当初、十代男子からするとちょっとした刑罰に近かったのだ(勉強しなかったのは自分だが)。でも、朝から夕方までの授業も、その後の柔道部も、なんだか楽しい想い出ばかりだ。
 こんなことがあった。数学の木全先生が教壇で熱心に板書していた。ふと見ると、木全先生のスーツのお尻に何やら黒い点が見える。その点はモゾモゾ動いている。蜂だ。自分が気づいたのと同じくらいにクラスの皆も気づいたようだが、誰も何も言わないどころか、皆が何かを期待していた。数秒後、木全先生が「いてえ!」と飛び上がった。蜂にケツを刺されたのだ。皆大笑いしたが、「言ってくれよ!」と木全先生怒ってらっしゃったっけ(そりゃ怒るよ。すみませんでした)。
 一人ずつ前に出て堀内孝雄を熱唱するのがテストだった増井先生の音楽。たまらなく美味かった学食の天かすたっぷりのうどんとカレー。素晴らしい経験をさせていただいた東北一周の修学旅行。体育館で聴いた神父様の講話で涙したこともあった。恥ずかしいからあまり言いたくないが、あの日々こそが僕の青春時代というやつだったのだろう。二度と戻らない青春の日々だ。
 時は流れ、冒頭に書いた映画館はすべてなくなり、当時元気だった人々も現役を退いたり、亡くなったり。映画好きな青年だった僕は、どうにかこうにか映画監督の端くれになり、日夜映画を作っている。こうしている今も、海星では、青春真っ只中の男の子達が学問に、スポーツに励んでいるのだろう。人生は短い。一瞬一瞬が宝物である。


第45走者

酒井志生(46回生)

 みなさんこんにちは、46回生の酒井(旧姓伊藤)と申します。同級生の日向君からバトンを受け今回寄稿することになりました。文章を書くことは不慣れなため、乱筆乱文になるとは思いますが、よろしくお願いします。
 全走者の日向君とは浪人時代の苦楽を共にし、今もなお仲良くさせてもらっている関係であります。彼との飲み会はいつも最新の海星情報がもらえ、また当時に想いをはせることができる場となっていますね。彼は今数学を教えているということですが、数学…理系に進んだ身としては正直お恥ずかしいことですが、数学はとても苦手でした。そのため大学で苦労する羽目になるのですが、その時になってようやく何のために数学を勉強していたのかがわかるという…。まあそれが少しわかっただけでも良かったのかな、と思うようにしています。
 さて、リレーコラムの内容を考えているうちに海星の思い出が出てきました。それは食堂です。私は6年制でしたので、中学の頃から食堂があるというのは本当に助かりました。その中でも「うどんライスカレーかけ」は今でも思い出すメニューです。確か400円くらいだったかな、それとチョコチップのパンを買うのが定番でした。高校時代は柔道部だったので、それでもお腹が満たされない、今では考えられない胃袋をしていたと思います。結構がっつりとした感じで一番人気のメニューでしたね。
 実は卒業後にも2回ほど食堂を利用したことがあります。僕にとっては日向君もいることですし、恩師もまだまだ現役で教鞭をふるってくださっていますので、挨拶がてら訪問すると、食堂で食事しても構わないとのことでした。たしか11時半くらいだったかな、まだ授業中の時間帯でしたので、学生もいなくてあの長机と丸イスをほぼ独占して食べさせてもらいました。先生方は当時の思い出を話してくださり、わずかな時間ではありますが若返ったような気がしました。
 これを読んで「ああー久しぶりに食べたい」と思ったあなた、たまには近況報告も兼ねて恩師に会いに行かれてはいかがでしょうか。あらかじめ連絡を入れて先生の授業のない時間帯を聞いておくといいですよ。


第44走者

日向和義(46回生)

 同窓生の皆さん、こんにちは。54回生三鳥川くんからバトンを受けた46回生の日向和義です。彼とは、彼の高校時代、私が新卒で就職し初めて担任したクラスが彼のいたクラスの隣りであり、また彼の授業担当であったという関係です。私は、海星高校の卒業生であり、また海星高校の職員でもあります。正直、このリレーコラムの話が回ってきたときは、「現職である私が書いていいものなのか?」とか「できれば誰かほかの人に回してくれないかな…」と思っていましたが、結局書くことになってしまったので、思うことをつらつら書こうと思います。あまり、文章が得意なほうではないので、読みにくいと思いますが最後までおつきあいください。
 現在、中高生として6年間と教員として13年間、計19年間毎日海星に通っています。その中で思うことは、海星の空気が好きであるということです。私自身「中高時代の思い出は?」と言われても、正直何もありません。修学旅行などの行事ですら、そんなに覚えていません。ただ、なんとなく学校に来て、なんとなく授業を受け、なんとなく級友と話して、なんとなく帰る。このルーティーンで6年間過ごしました。特に勉強を頑張ったわけでもなく、クラブや生徒会活動を頑張ったわけでもありません。では、なぜこの私が人生の半分以上も、大して思い出のない海星高校に愛校心を持って通えているのでしょうか?それは、ただなんとなくの生活の中に、ミッションスクールであり男子校である海星高校の独特の空気があり、その中に存在することを非常に心地よく感じているからではないかと思います。
 私も教員として13年間過ごす中で、優秀な生徒に恵まれ、多くの卒業生を送り出してきました。彼らと卒業後に接して感じることは、多くの卒業生がやはり海星高校を好きでいてくれており、海星高校の空気の中にいたことを幸せに感じてくれているということです。私だけでなく、多くの卒業生がこう思っているのですから、この空気こそが海星高校の「売り」であるとともに、海星高校そのものなのではないかと私は思います。そして、今後この海星高校の空気を絶やすことなく脈々とつないでいくことが、今の私の使命ではないかとではないかと感じています。
 以上、乱文ではありますが私のコラムを締めさせていただきます。今後とも、我が母校をよろしくお願いいたします。


第43走者

三鳥川幸治(54回生)

 第42走者、水谷祥平さんからバトンを受け、僕、三鳥川幸治(みどりかわこうじ)が第43走者としてコラムを執筆いたします。現時点で最も若い54期生です。思い出話もありきたりかと思い、在学中に得たことで今活きていることを、大きく2つ書きたいと思います。
 1つ目は、同じ中学・高校の出身者というだけで、何故だか身近に感じてしまうという点です。バトンを渡してくれた水谷さんとは、在学中まったく面識がありませんでした。年齢は違いますが、たまたま大学院で同じ学年、同じ研究室になり、たまたま研究室のデスクも近く、たまたま水谷さんの教育実習の書類を見て(覗いたのですが)、同じ海星出身だと気付いた、という具合に偶然の連続で、社会人になった今でも仲良くさせていただいています。もちろん、同じ中学・高校同士であれば、親近感がわくのは当然のこと。しかし、他の中学・高校に比べて、その親近感の度合いが大きいように感じます。海星出身同士、というだけで距離が近く感じてしまう、仲良くなれそう、そんな感情を抱けるのも、海星ならではのことだと思っています。
 2つ目は、先生運がよかったということです。僕は現在、進学塾で小中生に英語、国語を教えています。小学校のときの塾の先生の影響で、将来は学校あるいは塾の先生になりたい、と思ってきました。小学校の卒業文集に、「先生になりたい」と書き、それが実現しました。中学高校で出逢った諸先生方は、そんな僕の将来の夢を支えてくれたものと今でも確信しています。たとえば、6年間お世話になった、別府先生の英語の授業がなければ、今中学生に英語を教えるなどということはなかったでしょう。中学生の授業をしながら日々そう感じます。また、同じく6年間お世話になった平井先生の授業がなければ、教え子たちに自分の哲学を話す今の僕はいなかっただろう、とつくづく思っています。会社の同僚にもよく言われます。「お前は女運がないけれど、先生運はよかったのだな!」と(笑)。小学生のときの夢を叶えることができ、好きな仕事をしながらお給料がもらえて。そんな人生を送れているのも、海星のおかげなのだと思います。
 お世話になった先生、在学中の友だち、卒業してからのつながりのすべてが、今の僕を作ってくれています。学校の名に恥じないよう、日々、さまざまなことに挑戦していきたいと思っています。


第42走者

水谷祥平(51回生)

  前回の小林弥大からバトンをいただき、リレーコラムの執筆をさせていただく51回生水谷祥平です。同級生からの依頼で快く引き受けたのはいいものの、仕事が過酷ゆえにずいぶんと更新が遅れてしまいました。ヤスオ、すまん…。
 改めまして、コラムをご覧のみなさま、今回のコラムを担当させていただく水谷です。よろしくお願いします。さて、海星中学・高等学校を卒業して10年以上が経ち、いよいよ自分の人生これから! という時期に差しかかっております。私事ではありますが、現在私はとある学校にて教員をしております。一度初心に戻って見つめ直す機会にするためにコラムを引き受けさせていただきました。
 私は海星で過ごした6年間を振り返ると、特記事項は何もありません(笑)。普通に学校に来て、食堂で生姜焼き定食を食べて、放課後に適度にクラスメイトと話して、そして家へ帰るという繰り返し。これといった夢もなく、勉強もせず、なんとなく生きていた学生でした。今思い返すと、なんて指導しにくい生徒だったのだろうと思います(笑)。そんな6年間でしたが、ひとつ私の人生を変えるきっかけとなる行事がありました。海外研修です。
 私は小学生の頃、英会話に通い楽しく英語を学んでいたのですが、中学生になってから英語が苦手になりました。これは国の英語教育方針が原因でもあったのですが、「なぜ読んで問題を解いてばっかりなんだ!」と思ったものでした。英語を担当されていたイルズン先生は「なんであんな訛ってんだ!外人だろ!」と思わずにはいられませんでした。もちろん大してやる気もなく、英語の成績は低空飛行しっぱなし。そんな私にとって、海外研修はいい刺激になりました。伝えたいことがあっても伝えられない、伝わっても意図していないように伝わる、あるいは勘違いしてエライ目に会うなど、相互理解が難しかった。しかしこれが私にとって良いハードルになりました。これを絶対乗り越えてやる! という真面目な思いと、いつかペラペラになって世界の美女とお付き合いするんだ! という不純な思いが私の人生を変えた原点でした(笑)。
 海星を卒業した後は、念願だったアメリカへ5年間留学しました。そして紆余曲折を経て英語教員の職に就いています。現在、私は学校の進路指導部という部署で業務にあたっています。そこでは生徒の進路実現するために、学習指導、進路相談、時には学校行事を運営することもあります。進路相談に来た生徒には情熱を注げられることを見つけなさいと指導します。結果、何年何組の誰かも分からない生徒と2、3時間他愛もない話をしながら、やる気スイッチを探る日もあります。つまり、私の指導方針は自分の反面教師です(笑)。子どもは自分から理由なく勉強はしません。私もそうでした。そんな子どもたちのやる気スイッチをどうやって入れるのか、日々格闘しながら業務にあたっています。そして先日、1年間担任した生徒たちを卒業式にて見送りました。教育実習で訪れて以来となりますが、久しぶりに海星へ行きたいなと思いました。
 社会人になっても未だお世話になっている先生方、友人がいます。そんなきっかけをくれた海星中学・高校にとても感謝しています。そしてこれからさらなる発展を期待しております。


第41走者

小林弥大(51回生)

 皆さまこんにちは。51回生の小林弥大です。今回は美術部後輩の水野君からのご縁があり,リレーコラムに参加させていただきました。よろしくお願いします。
 6年間の海星時代を卒業して10年以上過ぎ,今年度で三十路になりました。海星卒業後も秋の文化祭の美術室にはできる限り顔を出すように心掛けています。逢いたい恩師が現役健在でおり,近況報告を兼ねて。今回はそれにまつわるお話をさせていただきます。

 高校受験の無い中高一貫教育の海星で過ごせたことによって,僕は中学生の頃に“将来の夢”についてじっくり考えることができました。熟考の末に見出だした答えが“仕事と家庭,そして趣味を両立し,豊かな生活をすること”それが僕なりの夢でした。…ですが,当時の僕には誇れるような趣味は無く,まず何をしたいかを探すところから始めました。
 “日常生活に活かせる趣味をしたい”“人に喜んでもらえること”“年齢問わず楽しめること”…などなど,いろいろ考えているうちに,やりたいことが見えてきました。
 「食卓を彩る様な陶器を創りたい」そう想ったのは15歳の頃でした。海星には陶芸ができる設備が整っていることを知っていた僕は,高校進学と同時に美術部に入部し,陶芸に励みました。
 幸いなことに,部活の顧問は当時の担任・鷺坂先生だったことも心強く,中学陶芸部の顧問・細田先生との見事な連携で僕をサポートしていただけたことも,感謝尽きぬ有り難いことでした。“僕の創りたいもの”に対してどの様に創る手法があるのかアドバイスをいただいたり,陶芸の幅広い世界を教えてくださったり,奇想天外な作品を創ろうとする僕を暖かく見守り応援していただいたり…その結果,“陶芸を一生楽しみ続けて生きたい”と思うようになりました。

 高校卒業後,陶芸部のある大学に進学しスキルアップに努め,新卒で入社した会社では住宅営業職を経験しました。その経験を活かし,数年前にマイホームを建て,庭に窯小屋を設け,自宅で陶芸を楽しめるようにしました。この生活を手に入れるまで“将来の夢”を考えた頃から約15年が経ちました。
 作品の販売は年に1度夏のクリエーターズマーケットに出店するくらいで,あとは友達を招いて陶芸体験して遊んでもらったり,結婚祝いや新築祝いに作品を贈ったり,知人が開くフリーマーケットに招いてもらったり…中でも昨年,同級生の小見君が四日市に寿司屋をオープンさせた際に開店祝いで陶器を贈り,後日その寿司屋『美好すし』でプチ同窓生を開催し,参加者に湯呑みをプレゼントできたのは凄く嬉しい想い出になっています。“海星で芽生えた縁が,今とこれからの人生を豊かにしてくれている”そう実感することが多くなってきました。
 『夢はみるものではなく叶えるもの』そう想い行動してきた成果が陶芸を趣味として悠々と楽しめる今の生活に繋がっているのだと思います。これからもこのような楽しみ方で自分なりの“趣味の陶芸道”を極めようと邁進していきます。
 この今の暮らしがあるのも,当時僕を指導してくださった先生方のお陰であり,一緒に美術部で芸術活動に励んだ仲間や学生生活を共に楽しんだ同級生との縁があったから。だからこそ今のライフスタイルに繋がっているのだと海星で過ごした日々を誇りに想い,今を生きています。
 「海星でお世話になった皆様,本当にありがとうございました」そして,今,自分が同窓生となり思うのは,当時関わった全ての人以外にも,美術部で陶芸をできる環境が整っていたことは数多くの卒業生のお陰でもあるのだと思い,この場を借りて海星同窓会の先輩の皆様に改めて心から御礼申し上げたいと思います。
 最後になりますが,更なる母校の発展と在校生が充実した学生生活を過ごせることを心より祈念し,コラムの結びとさせていただきます。ありがとうございました。


第40走者

水野勇城(52回生)

谷英治くんからバトンをいただきました、52回生、水野勇城です。
 卒業してから周囲と話をしていると、県下唯一の男子校ということもあり、かなり独特な高校生活だったんだなぁ、とスクワットの筋肉痛を思い出し、懐かしく感じながら書いております。
 当時は文系で歴史と国語を愛する優等生だったんですけれども、29歳を迎えた現在は、縁あって、技術職の方に囲まれながら工場の工程管理やシステム制作を行っております。何があるかわかりませんね、ほんと。
 中学高校を通じて沢山の方々にお世話になったことに、今でも大変感謝しております。6年間同じ時間を過ごした同級生のみんな、それぞれに制作活動に勤しんだ美術部の仲間、色々なことを教えていただいた先生方…楽しいことばかりではなかったはずなのですが、今となっては楽しい記憶しか残っていないのは、やっぱり楽しく過ごしていたんだなぁ、と改めて感謝です。
 なかでも、今回のリレーコラムの第一走者でもある、上田周平先生には色々お世話になりました。先生ご本人が覚えていらっしゃるかどうか分かりませんが、自分の中での原動力となっている言葉があるのでこの場で紹介させていただこうかと思います。
 いくつの時だったかは正直、覚えていません。が、社会の授業中だったことは覚えています。授業で僕たち学生の集中力が切れてくるタイミングで、いつも5分程度の余談トークをしてくれていました。そんな中での言葉だったと思います。
 それは学生時代に大部分の人が抱くであろう、「勉強をする意味がわからない。社会にでても学校の勉強なんて使わない。」という疑問に対する、あっさりした回答でした。
 色々な理由を話した後、先生は「それに、なんでもできへんよりできるほうがかっこええやろ。」と言いました。当時、特待生として勉強をがむしゃらに義務感だけでしていて、「勉強なんて意味ないやん。」と思っていた僕には衝撃的な一言でした。

 冒頭にも書きましたが,今,僕は学生時代の勉強がまったく使えないところで働いています。特に文系なんてそんなもんだと思います。けれどなんでもできないよりできたほうがかっこいいという言葉は義務感を前向きなモチベーションに代えられる言葉として,今も思い出しています。仕事にプライベートに活用しながらこれからも楽しく過ごしていこうかと思います。


第39走者

谷英治(52回生)

 中山慎太郎さんからバトンをいただきました,谷英治と申します。同級生ということなので52回生みたいです。
 卒業してもう10年以上経つと思うと早いものです。今は桑名のPER−HAPSという美容院に勤務しています。

 今回このコラムを書くに当たって,過去に書かれたコラムを拝見したところ,いつも来てくださるお客様や,保険でお世話になってる方の中にも,このリレーコラムに参加された方がいらっしゃり,そこで「同窓生」だという新しい繋がりが分かって,お店で盛り上がりました。世間は狭く,人の繋がりというのは不思議なものです。

 私は特教の出身ですが,当時,特教から美容師にという進路はかなり珍しかったかもしれません。きっかけは中2の時。勉強が嫌いとかそんな理由ではなく,人と接することがしたかったこと。人を綺麗にするっていいなと思ったこと。少しモテるかなと思ったことでした。先生方からは反対もありましたが,逆に応援してくれる方もみえました。今でもとても感謝しています。今,仕事にやりがいを感じることができているのも,応援してくれているみなさんのおかげだと思います。ちなみに美容師はそんなにモテません…(笑)。

 今年は28歳を迎えて結婚し,少しばかりの昇進も経験し,経営というものにもわずかながら携われるようになり,生活環境,仕事内容もがらりと変わりました。そんな中でとても気づかされることがあります。“会社の繋がり”“人との繋がり”です。当たり前かもしれませんが,企業も人もいろんな支えがあって成り立っているということがようやく分かってきた1年でした。これからは自分も積極的に“繋がり”に携わっていきたいと思っています。


第38走者

中山慎太郎(52回生)

 伊倉正浩さんからバトンを頂いてリレーコラムに参加することになりました、52回生の中山慎太郎です。
 もう海星高校を卒業して10年ほどたちますが、近鉄の塩浜駅から自転車で通っていたことがついこの前のような気さえします。
 社会人になった今は、調剤薬局で薬剤師をしており、最近は転勤になった岐阜の方で勤務をしております。
 僕は在学中は結構サバサバしたところがあり、本当に仲の良い友達以外は深く関わろうとはせず、言葉は悪いですが「まあこいつとはこの先関わることもないやろ」 というようなことも考えていました。ですが、大学の後輩に海星出身がいたり、教授が英語科の別府先生と高校の同級生だったり、 また仕事でお世話になっている医師と日本史を教えていただいた清水先生が写真仲間だったりというようなことがあり、今になって人との出会い、 繋がりがすごく大事なことだというのが身に染みてわかりました。なので今は「あの時もっと色々話しとけばよかったなあ」と後悔することのないように、 出会いを大切にして仕事以外でも様々なイベントに参加して繋がりを作っていきたいと思っています。


第37走者

伊倉正浩(52回生)

 藤田哲成さんからバトンを頂いて参加する事になりました。伊倉 正浩です。
 卒業して10年が経った今、海星で過ごした6年間を思い返すと、周りの友人、在学中にお世話になった先生方に支えていただいたおかげで、楽しい青春時代を過ごすことができたと思います。
 6年も同じ校舎に通っていましたが、皆さんに聞いていただくような事件や思い出はありません。くだらない事で笑ったり、怒ったりと、とても平和な学生生活でした。
 勉強は苦手で、みんなが登校する前に登校して補講に出た記憶が鮮明に甦ります。
 頭髪検査があり、必要以上に反抗していたことも良い思い出です。
 特にこれといった思い出はありませんが、友人に言われた一言「イグラはいつも楽しそうやな」という言葉がとても印象に残っています。
 その当時はなんとも思いませんでしたが、今考えると良い青春時代を過ごしていたんだと感じます。
 入学当初は知り合いがいなくって、友達もいませんでした。海星で過ごした6年間でたくさんの友人を作ることができ、人間関係の作り方を学ばせていただきました。卒業後も「人間関係に恵まれているな」と感じることがたくさんあります。これも海星で過ごした6年間に培われたものが僕を助けてくれているんだと思います。
 これからも、また友人に『イグラは相変わらず楽しそうやな』と言われるように、頑張ります!!


第36走者

藤田哲成(52回生)

猪子道一さんからバトンをいたいて参加することになりました52回生の藤田哲成です。
 卒業してから10年ぐらい月日が経っていることに自分で驚いている今日この頃です。在学中には,保健室やイルズン先生の部屋によくお世話になりました。保健室では寝させていただいたり,イルズン先生の部屋では「いいとも!」を見させていただいたり,すごく快適で自由な学校生活でした。
 海星にて学んだ精神を活かして海外に飛び出し,さらに色々な事を経験することができ,スペイン人やイタリア人やロシア人や,海外のキレイな女性ともいっぱいお付き合いすることができました。こんな経験がたくさんできている自分に育つことができたのは海星のおかげです。海星に通わなかったらできない経験でした。

【今回のコラムの一言】
 間違ってはいないとは思いますが,スペインや南米(ブラジルを除く)の女性を口説くときには皆様ぜひご使用ください。
 ※使用された場合,その結果について当方では一切責任を負いませんのでご了承ください。

 nunca conoci una mujer tan bella como tu.
 ヌンカコノシウナムヘールタンベジャコモトゥ

 では皆様…。
 ¡Asta mañana!


第35走者

猪子道一(41回生)

 後藤大介さんから紹介いただきました第41回卒業生の猪子道一です。
 今回リレーコラムのお話をいただき,卒業から20年たった今,改めて在学中の6年間の懐かしい出来事を想い出す機会を頂いたことに感謝すると同時に,卒業生の皆様の近況を垣間見ることができ「さすが,海星高校卒業生」との思いを抱いております。
 当時の思い出はたくさんありますが,忘れもしない高3のある日,「放課後に学校で勉強してから帰る」と嘘をつき,四日市で遊んでから帰宅すると,なんと自宅駐車場に,あるはずのない担任の村山先生のシーマが停まっていました。一向に成績が上がらない私を心配しての抜き打ち家庭訪問。当然,その夜はお説教の嵐でした。今思うと先生に本当に感謝しています。
 そんな先生の心配をよそに,入学から卒業までの6年間,特に目標も無く学生生活を送り進学,そして就職しました。しかし社会人になって数年が経った頃,夢に向かって頑張っている同級生や先輩,後輩の話を耳にするたびに羨ましく思い,刺激され,自分にも何かできるはずと思うようになり,自分なりの目標を持つことができました。
 現在,私は鈴鹿市で小さいながら自動車販売店を経営しており,高校3年生と2年生の2人の息子がいます。男同士で意見のぶつかり合うことも多く,仲裁に入る妻からは「昔の自分を思い出せ」と言われる始末です。
 当時の自身の生活態度,先生方や両親に叱られたりした事は棚に上げ,まるで昔の自分に言い聞かせるかのように,当時の諸先生方からご指導いただいたことを子供たちに偉そうに話しています。今更ながら,今の自分があるのも海星で過ごした6年間,諸先生方,同窓生の皆さん教えがあったからだと感じています。
 これを機に母校や同窓生の皆さんと関わりが持てたらと思いますので,その際はよろしくお願い致します。


第34走者

後藤大介(41回生)

 第41回生の後藤大介と申します。中学1年からの同級生,堀田泰司くんからバトンをいただき,リレーコラムに参加させていただきました。
 自分が通っていた小学校から当時私立中学に進学したのは私ともう1名だけでした。同級生と離れる寂しさを感じながら,桑名駅から朝眠い目をこすって通学しはじめたことを思い出します。
 入学すると当然クラスは男子ばかり。とても男臭い教室の中,新しい中学生活が始まりました。
中学時代は硬式テニス部に入部したのですが,週1回の練習でしたのであまり本格的ではありません。部活にも打ち込めない中で,友人の影響と当時のロックバンドブームの影響でベースを購入するなど,あまり勉強はしていませんでしたね(笑)。
 高校生になると,気持ちを引き締め直し,周りの優秀な同級生の刺激もあったのか,多少?は勉強をしはじめました。中学までは内部線で追分駅経由でしたが,高校からは塩浜駅からの自転車通学でした。
 海星での6年間の学生生活では,あの年齢の時にしか得ることができない貴重な経験をたくさんしてきたと思います。当然,それらの経験が今の自分を形成する上で影響を与えていると思います。
 現在,私は桑名市や海外でロボット関連の製造業を経営しながら,三重県の活性化のためにJリーグを目指すサッカークラブを運営しています。「ヴィアティン桑名」というチームです。
 本業以外にこのような活動ができているのも,前向きに積極的に考える習慣が身に付いているためだと思いますが,そのような考え方には海星での学生生活が少なからず良い影響を与えてくれたのではないかと思っています。
 昨年は,海星サッカー部にヴィアティン桑名のコーチが指導に行くなど,母校との交流も行なっています。
 やはり母校はいつも元気で魅力ある学校であってほしいと願っています。
 現在の海星中学と高校の皆さんが将来活躍することを祈念して,次の方にバトンを繋ぎたいと思います。同窓会で皆さんにお会いできる日を楽しみにしております。

 P.S. 同窓会の皆さん,ヴィアティン桑名をぜひ応援してくださいね!


第33走者

堀田泰司(41回生)

 Everything will be OK in the end , and if it ain't ok , then it ain't the end .

 最後にはきっとうまくいくよ。もしうまくいかなければ,まだ終わっていないってこと。

 スペイン人教師ドメニオ先生から学んだ人生の教訓。

 深いわぁ…。

 ぱ~どれ け~ で~ ろす に~にょす♪


第32走者

黒田誉喜(40回生)

 みなさん,こんにちは。第40回生の黒田誉喜と申します。海星を卒業して21年が経ち,このような形で関わりを持てて嬉しく思います。
 初めて内部線追分駅を降り立った日の,通学路が学ランと黒髪で真っ黒に埋まっていた光景を今でもはっきりと覚えています。
 特に未来へのビジョンもなく,なんとなく流れにのって漂着した流木みたいに,僕は海星に入学しました。なんとなくテニス部に入り,なんとなく1年で辞め,なんとなく過ごした3年間でした。大きなケガや病気もすることなく過ごせた青春の日々は,刺激こそ少なかったものの,今思えば平和な3年間だったと思います。でも,振り返ってみると,「もっともっといろんなことをやればよかった」と感じます。
 ある方は「幸せとは振り幅の大きさで決まる」と言いました。深い悲しみや,絶望を知れば知るほど,感じる幸せの上限が上向くという考え方です。この考え方に当てはめると,僕の3年間は,平和そのものではありましたが,もっとチャレンジし,もっと失敗し,もっと挫折していれば,思春期という蛹のような時期に,もっと鍛えられ,もっと幸せを感じる心が養えたのではないかと思い返したりもします。
 でも,今この瞬間からだって,新しいことにチャレンジしたり,冒険したりできるってことにも最近気づきました。私事ですが,先日,家業を継ぎ,株式会社黒田モーター商会の代表取締役に就任しました。祖父,父と65年間続いてきた歴史のバトンを受け取った形です。「人生は一度きり」と最近,自己暗示をかけるかのように自分に言い聞かせています。今,21年前の高校生活を顧みるように,21年後61歳になった僕が40歳の僕の生き方について後悔しないためにも,やりたいことは全部やりたいと強く思います。
 もうひとつ自分に言い聞かせていることがあります。それは「夢と欲望の区別」についてです。僕は「僕しか喜ばないことは欲望」「みんなが喜んでくれることは夢」と定義づけています。死ぬ瞬間に,「あぁ俺の人生,悪くなかったな。」とニヤリと笑えるような人生を送れるよう夢に挑戦し続けていくために,やりたいことも,やりたくないことも,すべてやってやる所存です。
 大人になって,卒業以来疎遠になっていた友と再び御縁を頂きました。卒業式の日,教室で担任の川村厚志先生から頂いた言葉をよく思い出します。
「どんな人生を歩んでも,きっとゴールは同じやと思う。それは愛や。」
 ゴールを目指す途中で旧友とクロスし,ともに愛ある人生を共有できたらと強く思います。それと川村先生はもうひとつ言葉をくれました。
「ええか,女の子を泣かすなよ。」
 先生!今日からその言葉を守れるよう生きていきます! みなさんも,くれぐれも女の子を泣かさないように(笑)。
 それではまたどこかで逢いましょう。


第31走者

国本明裕(40回生)

 第40回生の国本明裕と申します。野球部の同級生,伊藤さんからバトンをいただき,リレーコラムに参加させていただきました。
 私は中学からの6年間,通わせていただきました。今思い返すと,私が入学したいと強く思ったのは,私の1つ年上の従兄が通っていて,学ランの星の学年バッチが凄くカッコ良く見えて,憧れたからだったと思います。
 中学の入金試験に合格した時,父が凄く喜んでいたのも印象に強く残っています。同じ通学の電車や学校に高校3年生も一緒にいて,特に最初の1年間は,小学生からいきなり社会に出たような感覚でした。
 テニス部に6年間所属し,その時できた友人とは今でも家族ぐるみで交流してますし,テニスも趣味で楽しんでます。部活動が楽しく,テニスの試合に本気で勝ちたいと思えたことで,充実感を感じて学校生活を過ごせたように思います。
 中学では珍しい硬式テニス部であったことや練習熱心な部員が多かったことも海星テニス部の良さであったと思いますし,中学時代からレベルの高い高校生の練習を身近で体感できたことも勉強になり,中高が同じ敷地内にある良さであったと思います。
 私は母校に対して,学校環境が非常に素晴らしく,その中で規律や先生方の支えによって過ごせたことを感謝しています。特に高校の担任の川村先生には大変ご迷惑をお掛けしてしまいました。申し訳ございませんでした。卒業後にお会いした際は,気さくに接していただき,ありがとうございました。
 またいつか同窓会などで皆さんにお会いできる日を楽しみにして,次のリレーの方に繋ぎたいと思います。ありがとうございました


第30走者

伊藤克弥(40回生)

 第40回生の伊藤克弥と申します。野球部の大先輩、小林さんからバトンをいただき、リレーコラムに参加させていただきました。
 私が海星高校を選んだ理由は「甲子園に出場したい!」「伝統の純白のユニホームを着て、甲子園でプレーしたい」という気持ちからでした。当時は明野高校の全盛期から海星高校が甲子園常連校となる幕開けの時代でした。この当時からNHKで「三重海星」と呼ばれるようになりました。

 三重県一の練習量、軍隊のような上下関係、厳しすぎる野球部礼儀作法などをしっかりと学び、当時の市川部長、湯浅監督、服部副部長の先生方には大変お世話になりました。いつも言われていた言葉は、「感謝の気持ち」「謙虚な気持ち」「人を思いやる気持ち」。そういう気持ちを忘れるな、と野球部の朝礼や練習後のミーティングで毎日頭に叩き込まれました。その教えがあって私の土台ができ、今の私があると感謝しております。

 現在私は、四日市松本街道沿いで輸入車販売の会社を経営しております。仕事柄、お客さまとして多くの経営者の方々にお会いする機会があります。お客様にお聞きすると、海星高校ご卒業の先輩が非常に多いです。海星高校の繋がりを大切にしていきたいです。海星高校に感謝です。

 海星野球部のOBで構成される海星OBマスターズに参加させていただいております。今年3月に行われましたマスターズ甲子園三重県予選で優勝し、再び三重県の頂点に立って甲子園大会へのに出場を決めることができました。11月に行われる甲子園大会は第2日目の第2試合で徳島代表と対戦しますので応援よろしくお願いいたします。

 やはり海星高校には、甲子園で勝つ野球部を作っていただき,古豪復活を果たしていただきたいと思います。そして、もう一度「三重海星ここにあり」と、全国の高校野球ファン、海星ファン楽しませてほしいです。

 サッカー部をはじめ、他の部活動が大変優秀な成績を収めているように、野球部にも改めて全国に名を轟かせてほしいです。益川先輩のコラムに書いてありましたが、勉学の方でも頑張っていただき、文武両道の魅力のある学校として全国的に有名な学校になれるよう頑張ってほしいです。卒業生として母校の誇りを胸に秘めております。

 最後なりますが、今後の海星高校の更なるご発展を心よりお祈り申し上げます。


第29走者

小林正幸(33回生)

 第33回卒業生の小林正幸と申します。よろしくお願いいたします。
 今回,リレーコラムのバトンを私に渡した益川君は3つ年下。私が卒業して奴が入学。入れ違いです。どうやら益川君も野球部だったそうですが,プレーと体型を見る限り「マジ?」って思っています(益川,冗談,冗談^^)。

 正直なところ,「なんでこんな厄介なバトンを渡すんや!」という気持ちです。
 なにせ私,体育会系。頭はからっぽ。ちょっとだけある脳みそは筋肉。文章は大の苦手。益川くんに「俺の文章,お前が考えろ」と言いましたが,無理でした…。
 粗末な文章ではございますが,どうかご勘弁のほど,よろしくお願いいたします。

   私も野球部に所属していました。入部と同時に体験する厳しい封建社会。
3年生は神様,2年生は平民,1年生は奴隷。多くの同志が入部しましたが,平民になれるところまで残った者はわずか10人でした。
 残念ながら,在籍中は憧れの甲子園球場の土を踏むことも,アルプススタンドから声援を送ることもできませんでした。夢,叶わず…。
 しかし,海星高校野球部というところは,甲子園球場よりも大切なものを与えてくれた気がします。なんか,負け惜しみにしか聞こえないかもしれませんが…。

海星高校野球部の3年間で学んだ事・・・耐えること

得たもの・・・仲間

でも,失くしたもの・・・普通の高校生活^^

 最後の夏の大会で敗れた後,失くしたものを取り戻そうと遊びまくった記憶もあります。

   現役時代に実現できなかった夢を再び追いかけ,母校野球部OBにて構成されるマスターズ甲子園のメンバーに登録していますが,なかなか仕事の都合で参加できず,歯がゆい思いでいる今日この頃です。

 今,仕事やプライベートで多くの方々にご縁を頂戴いたします。そんな中,海星高校卒の方とは「ひょっとして,男,大好き?」で始まり,スクワットや独特だった校風の話などで盛り上がり,打ち解けられるのがとても早いですね。
 そんなことにも後押しされて,多くの海星高校卒の方々に大変お力添えをいただいています。先日もある酒の席にて,カウンターに座ってみえた見知らぬ方が,実は海星高校野球部の大先輩であることが分り,楽しい話を肴に楽しい酒の時間を過させていただきました。ほんと,様々なシーンで海星高校に“感謝”です。

 世代を超えて海星高校ネタで話が弾むのって,なんか,すっごくいいですよね。今後も先輩の方々から我々,そして後輩まで築かれている,この「海星高校つながり」,大切にしたい限りです。
 
 最後になりましたがこの場をお借りいたしまして,お世話になりました諸先生方と,これからも可愛がっていただきます諸先輩方,苦労をかける後輩諸君に感謝の意を述べさせていただきますとともに,更なる母校の発展と在校生のご活躍を心より祈念いたします。


第28走者

益川篤夫(37回生)

 北岡太輔先輩からバトンを受けました益川です。よろしくお願いします。
 北岡さんとは,四日市青年会議所の活動で知り合い,その後も仲良くしていただいています。青年会議所の活動中の何気ない会話から,出身高校が海星ということが分かり,急に距離が近くなった気がします。
 私は,高校時代野球部に所属し高校野球児のあこがれの甲子園を目指し,日々,部活動に励んでいました。高校時代の思い出は,それしか無いと言っても過言ではありません。
 残念ながら在学中の3年間,一度も甲子園に出場することは,できませんでした。しかし,高校時代の厳しい部活動を経験することで「仲間との人間関係,信頼,礼儀作法など」を学ばせていただき,今の私の財産として蓄えられています。今も年間に数回,野球部のメンバーを集めて飲み会を開きますが,いつも同じ昔話をネタに楽しい恒例行事となっています。
 時には,当時の湯浅監督,服部先生を交えて開催しますが,今では,恩師というより兄貴的な存在で本当に良い関係ができていると感じています。
 私は,仕事柄,多くの経営者の方々とお会いさせていただく機会があります。その際,自己紹介で「高校時代,海星で野球部をしていました」の話題で「じゃ私の後輩だな?」と海星高校卒業生の経営者の方に遭遇するケースもあり,先輩方に助けていただくことが多いです。また,卒業生以外の方でも野球好きの経営者の方が多く,野球を通じて話が和み,信頼関係が深まることもあります。
 本当に歴史と伝統ある海星高校の卒業生であることで,助けていただくことが多いので本当に感謝しています。将来,私も多くの後輩と出会えることを楽しみにしています。
 今,少子化の影響か母校の生徒が減っているようですが,現役の野球部員には,甲子園出場を目指して古豪海星高校復活を果たして欲しいです。他の部活動でも全国大会常連校となり,勉強でも一流大学への進学常連校に名を連ねるような,文武両道の魅力ある学校になること心より願っています。
 私も微力ながら海星高校に少しでも恩返しができる活躍をしたいと思います。
 ありがとうございました。


第27走者

北岡太輔(36回生)

 1982年,海星中学校に入学し,1988年の卒業までは「勉強」一途に6年制特別進学クラスにて諸先生方にお世話になりました北岡太輔と申します。
 卒業後,上智大学へ進み,体育会アメリカンフットボール部に2年間所属。椎間板ヘルニアを患い,水泳部水球部門へ転部。恥ずかしながら留年中は自転車部トライアスロン部門に所属し,遅まきながら東京にて青春を謳歌させていただきました。
 卒業後は渡米し,ニューヨークにて宝石鑑定士の資格を取得。2年半滞在し,再び東京の宝飾専門業者に就職。関東・関西の伊勢丹,高島屋,遠鉄百貨店各支店の宝石売場にて営業及び商品流通活動を3年間経験し,1998年には三重県四日市に戻ってまいりました。
 2000年からは(社)四日市青年会議所にて10年間,四日市市活性化のために社会貢献・自己啓発に努め,2009年に本会議所監事を務めさせていただき,卒業。
 2013年,ファミリービジネスである(株)キタオカにて時計・宝石・メガネの小売業を営んでおります。
 私どもキタオカは昭和2年に創業し,皆様のお蔭様を持ちまして,本年で86年目を迎えることができました。
 また,皆様ご承知の如く,原発問題,竹島問題,教育問題など社会経済が非常に不安定な昨今,金地金が大高騰しており,キタオカは三重県北勢部唯一の田中貴金属工業特約店として,86年の信用・信頼のもと,金・プラチナの売買も大量に取り扱いさせていただいております。
 私どもキタオカは来るべき創業100周年に向けて,皆様に幸せをお届けするべく今まで以上に日々精進していく所存で居りますゆえ,今後とも私,北岡太輔共々ご指導ご鞭撻よろしくお願い申し上げます。
 乱筆乱文になりましたが,わが母校,エスコラピオス学園海星中・高等学校の益々の発展・繁栄を祈念して,この辺で筆を置かせていただきたいと思います。ありがとうございました。


第26走者

伊東 学(36回生)

 この度,フェンシング部の後輩である藤村貴君からバトンをいただきました,伊東学です。卒業してから四半世紀がたち,大学,就職で四日市を離れていた時期がありましたが,7年前に地元で歯科医院を開業するに至りました。開業後,青年会議所に誘われ入会すると,海星高校の卒業生がたくさんおり,なんの縁か同窓会にも携わらせてもらっています。仕事の都合であまり協力できず,山下会長をはじめ委員のみなさんに御迷惑をかけっぱなしですが…。
 高校の3年間を思い起こすと,授業中は机と椅子が一体で寝にくかったこと,体育のスクワットがしんどかったこと,なぜか今でも校歌が歌えるほど練習させられたことしか覚えていません。大学では知り合ったスペイン人に「パドレケ デーロス…」と歌って全く通じず変な顔をされたこと,大学の学園祭で素人のフェンシング大会で優勝しクラブへの勧誘がしつこかったことが思い出されます。
 今は,病院に来られる患者さんの中にも海星の在校生がおり,学生服がブレザーに変わっていて詰襟の学生服の時代でよかったなと思います。また,フェンシング部のOB会が発足したことを藤村君から教えてもらい,現在は先輩方や後輩達との交流が生まれております。自分はというと,四日市歯科医師会の理事を務めさせていただき,四日市の口腔保健に関する条例をつくるために奔走しています。一児の父親である自分も四日市の将来を考え頑張っていきたいと思います。
 寒さも増してきました。ノロウイルスの後はインフルエンザが流行します。皆様ご自愛ください。


第25走者

藤村 貴(41回生)

この度,同期生である樋尾重樹君からバトンをいただきました,藤村貴です。卒業してからも,こうして自身の母校との関係が継続できることをとても嬉しく思います。性格的に堅苦しい文章ですが,最後までお付き合いください。
 私の高校3年間を思い起こしますと,授業中は寝ていることがほとんどで,放課後は部活に向かい,塾がある日には友達と共に学びながらもやっぱり遊びが中心でありました。
 卒業いたしまして20余年,私が地元に戻りましてまず母校と関わりましたのは,10年前に卒業生の就職希望者の雇用について,ご相談に伺ったことからでした。その時,川村教頭先生(当時)とお会いし,学校の現状や,自身の卒業後のご報告,在学中の部活動のことなど,積もる話を延々とさせていただきました。川村先生は,私が1年生の時にフェンシング部の顧問でいらっしゃって,その風貌とは裏腹に,私達部員メンバーに対しては大変優しく接していただいたことを覚えております。
 もともと,世代的に学力至上主義が隆盛を誇っていた中,部活動での内申書は大きな要素を持っておりました。私が入部したのも,マイナースポーツであるフェンシングは,しっかりと練習を熟せば,インターハイへの出場も手の届くところに見えていたからです。このように入部した動機は大変不純でありましたが,気がつけば毎日休まず取り組み,その中で経験した悔しさや喜びが身になり,人間形成ができたのだなと感じます。結局のところ,学業も部活動も良い大学へ行くための行為とは全くなっておらず本末転倒でしたが(笑)。
 川村先生のお声掛けでフェンシング部のOB会が発足し,現在は先輩方や後輩達との交流が生まれております。学生時代の昔話ができる関係は,大変貴重な財産となりました。そしてこの縁を,このような場にて報告出来ましたことを感謝いたします。ありがとうございました。


第24走者

樋尾重樹(41回生)

 四日市青年会議所の可愛い…?後輩である樋口龍馬君よりバトンを頂きました。
 たぶん41回生の樋尾重樹(ひおしげき)と申します。現在は,家業を継ぎ福栄産業という小さな不動産会社を営む3代目です。
 海星高校入学当初の思い出は,追分駅より歩く道中を見渡すと黒色の学生服がいっぱいで,凄く異様な光景だったのを鮮明に憶えています。何だかそれがショックで三日ほど学校を休み,自転車通学に変えたような記憶があります。
 私は中学校より軟式テニスをしていたのですが,どうしても硬式テニスがしたくて私立T高校を蹴って海星高校に入学致しました。入学当初の新人のメニューは,ひたすらボール拾い,ひたすらマラソン,ひたすらダッシュ,ひたすらスクワット等の筋トレがメインでした。当初の入部者は50名程いましたが,夏までには15人位になっていたのを憶えていますよ。お陰様で残ったメンバー全員が,筋肉隆々で野球部と良い勝負でしたよぉ~(笑)。昔テニス部の掟で体育祭の際に野球部以外の人に負けた場合は,五厘刈りにするという伝統がありましたが,今はどうなったのでしょうか…。
 また,淡い思い出としては,学園祭の時に知り合った某女子高の生徒さんと大学時代までお付き合いをしていたことをよく憶えています。数年前に偶然まちでバッタリ出逢い,昔話に花を咲かせたこともあります。
 話は変わりますが,龍馬君のコラムにも書いてありましたが,社会に出ると本当に海星高校出身の社長によく出逢います。私と年齢が近い方は,スクワットの話で盛り上がりますし,年配の方には若き後輩として可愛がって頂けます。皆さん,それぞれが現在も輝いておられ,尊敬に値する人達ばかりです。ひょっとすると海星高校の校風は,起業家・実業家を育成するのに最適なのかもしれませんね。
 卒業してから約20年が経過致しますが,海星高校に入学したことは偶然ではなく必然のように最近よく思います。昔から負けず嫌いではありましたが,仕事が辛い時,苦しい時に部活の練習やテニスの試合を思い出します。今の私のファウンドは,やはり海星高校にあるのだと実感しております
。  支離滅裂な内容のコラムとなったかもしれませんが,このコラムをお読みの皆さまが,今後益々ご活躍されますことをご期待申し上げて次の走者へバトンを繋げたく思います。


第23走者

樋口龍馬(43回生)

 四日市青年会議所の仲間であるヨシキンさんから突然のお電話でバトンを受け取った43回生の樋口龍馬です。
このリレーコラムを書き出すにあたりまして,過日,天に召されましたヘルマン神父様を偲び,エピソードを添えさせていただきます。
1999年,卒園した海の星幼稚園で挙式をしたのですが,クリスチャンでない私のためにヘルマン神父様が教会で挙式できるように口添えをしていただことや,海星高校に合気道部を立ち上げるに当たり多大なるお力添えをいただいたこと,在学中最も印象深いのは朝礼でたどたどしくも賞状を読み上げ,最後にご自分のお名前を(当たり前ですが)見事なイントネーションで添えられていたこと等,今もはっきりと思い出すことができます。
最近ご無沙汰をしていたことが悔やまれますが,心の優しいお方ですからきっと安らかにお休みのことと信じております。

さて,私は在学中は物理部と水泳同好会に所属していました。
家業であるパン屋サントレー(現kornblume)の商品を大量に持ち込み,勝手に販売していた日々が懐かしい,って書きながら今にして思えばすごくまずいことをしていたのだろうか?と背中に冷たいものが流れます…。

閑話休題

高校卒業後は南山大学に進学し,現在は南山大学同窓会三重支部の幹事をさせていただいています。その支部長が坂嵜元校長先生だっていうんですから世間というのは狭いものだと感じます。そこにきて,今私は人に会う機会が多い仕事についているのですが,特筆すべきは海星OBとの出会いが特に多いことです。自己紹介をすると「今いくつ? そんなら俺の後輩やな!」なんてことがザラにあります。もちろん共通の話題を得ることになるわけですから,とってもありがたいのですが,海星ネットワークが四日市の経済界に食い込みすぎていて,怖いくらいです。やっぱり世間は狭すぎます。悪いことはできません。
皆さまも自己紹介の時に「高校は海星でした」と添えていただくと,思わぬ先輩,後輩に出会えるかもしれません。お試しあれ。

ところで皆さん知っていますか? 2013年8月に,近鉄が内部八王子線の経営について廃線も視野にいれた一定の方向性を示すそうです。私は自転車通学でしたので実感があまりないのですが,これって電車通学の生徒にとっては大打撃ではないでしょうか? このコラムを読まれた方が少しでも関心を持っていただけたらと鉄道の話にも関わらず少々脱線してみました。

最後に現在の海星との関わりですが,(彼にとっては)不幸にも私の1級後輩である位田教諭を通して海星高校合気道部の学生たちと一緒に稽古をする機会があります。ご子息が海星に入学された際には是非入部を勧めてください。オススメです。
位田教諭が私と関わって何故不幸なのか? いつか回ってくるであろう彼のリレーコラムで明らかにしていただくとして,私のくちゃくちゃなコラムはこのあたりで閉じたいと思います。

結びに当たりまして,寄稿が遅れましたことをお詫び申し上げますとともに,同窓会役員各位のお働きに感謝の言葉を。
いつもありがとうございます!


第22走者

中村吉均(42回生)

 親友の杉山君より呑みながらバトンを受け取ったヨシキンです。高校を卒業して18年。皆様元気にしていますか? これを見て連絡をいただけると嬉しいです。

海星を選んだ理由は野球部に入部し甲子園に出場したかったからです。

ただ…

高校入学前に右肘を手術し,思うようにボールが投げられなくなり,夢をあきらめなければなりませんでした。
無気力に日々過ごしていたときに,今でもよく呑みにいく藤村キャプテン(41回生)に出会い,フェンシング部に入りました。フェンシング? と,なめた感じで思っていたのですが,練習が意外に厳しく,3年間,早朝から夜遅くまで練習しました。3年生の時に激戦を勝ち抜き,インターハイに出場,活躍できたのはいい思い出です。

また,野球に未練があり,野球部の手伝いになることはないかと考え応援団にも入りました。甲子園のアルプススタンドで応援団員として応援できたことは,今でも誇りです。

野球部のみんなありがとう。

当時の苦い思い出ですが,入学したての頃,野球ができない体になって腐っていた時に,担任の北村先生に十数発ビンタをされたのが1番鮮明に覚えています(笑)。でも,そのおかげで今の自分がいるような気がします。この場をお借りして,恩師にお礼を言わせていただきます。北村先生,あの時叱っていただき,本当にありがとうございました。
現在,私は外資系の保険営業をし,経営者のアドバイザー的存在の仕事をしております。この仕事をしていると,感謝する気持を大切にして恩返しをすることが,自然と日常になりました。
そして,青春を過ごした四日市に恩返しができないかと思うようになり,社団法人四日市青年会議所で「明るい豊かなまちの実現」のために日々活動しております。少しでも四日市に貢献できるようこれからも頑張ります。


第21走者

杉山浩也(42回生)

 みなさんご無沙汰しております。水元君よりリレーコラムのバトンを頂きました杉山です。水元君は中学・高校の1つ下の後輩になります。よって私は42回生。良い数字ではありませんが覚え易くて良しとしましょう。そして数えたら卒業して18年も経とうとしていて,現在私はダブルスコアの36歳。ゴルフのハーフラウンドもそのくらいのスコアで回りたいものです。
私自身の近況は,大学生活で4年間豊橋に住みましたが,現在は生まれ育ったいなべ市に戻っており,現在は3児の父です。
望みもしていないのに腹は出てくるし年々痩せ難くなるわで,中年のおっちゃんの域に達したんでしょうか(笑)?
本題に戻ります。海星高校在学中の思い出はいろいろありますね。電車を乗り継いで2時間ちょっとかかった通学,校舎周りが何とも言えないようないような臭い(光化学スモッグ警報か?)がしたこと,何故か毎日引き寄せられるように必ず立ち寄っていた校門前の「うえきや」,椅子とパイプでつながっていた使い勝手の悪すぎる教室の机,全部掃ききって欲しかった掃除の折に校舎内に撒かれたオガクズみたいな黄色い粉,そして強かった野球部に連れて行ってもらった甲子園で大声で応援したこと,とまぁ書ききれないくらいありますが,一番の思い出は体育の時間にやった(いや,やらされたんです)スクワットですね。社会人になってから海星高校の出身者に結構出会いますが,思い出話に必ず出てくるのがスクワットです。確か200回以上で累積回数に数えられて累積計2000回やらなければならず,500回を3回やると特別にそれで終了でした。
体育館でみんな整列して大きな声で「イチニッサンッ!ニーニッサンッ!サンニッサンッ!。。。」みんな懐かしいと思います。それで,ギブアップする人が多くなると残った人だけで円になってやってましたね。本当に地獄でした。足がめちゃめちゃ痛いし。
それにスクワットをやる前に腕立て伏せ,腹筋,エビぞり背筋,馬跳びなどで体力をかな~り奪われていたんですよ。確か竹刀持って「こら~もっと頑張らんか~!」って叫んでいた先生も居ましたよ。。。鬼に見えました。頭からツノが見えました。
そんな中で私は頑張って500回を3回やりましたよ。壇上で高見の見物が出来ましたし,サッカー部の先輩をどうしても見返したくて。3年間サッカー部に所属していましたが,先輩も同級生も後輩もみんな上手くてレギュラーなんて到底無理でした。でもそんな大きくて強くてどうやっても敵わない先輩2人に「体力だけはお前には負けるわ」って言われたのがうれしくて。
それ以来,それだけのためにスクワットを意地張って頑張っていたんです。サッカーもそれくらいやれよっ! って話ですよね(笑)。
今「やれ」って言われても確実に無理です。筋が数本切れるでしょう。今でもやっているんでしょうか? 在校生の方,将来役に立つかどうか不明ですが是非とも頑張ってもらいたいものです。
最後に,在校中担任して頂いた倉田先生,早川先生をはじめご指導いただきました先生方にこの場で恐縮ですが改めて感謝すると共に,母校海星高等学校の益々の発展をお祈り致します。
そして私はクラスの仲間にも恵まれました。特に3年のクラスは面白くてひょうきんな人が多くて男子ばかりでも楽しかったです。
そんな中で次にバトンを回すのは中村吉均くんです。ココに名指しで指名すれば断れんやろうに! 頼んだよヨシキン!!!


第20走者

水元篤(43回生)

 はじめまして。亀井君よりバトンをいただきました,いなべ市在住の水元と申します。亀井君と同じ43回生です。
海星高校在学中の思い出は,十数年経っているので忘れてしまっていることが多いです。部活をやったりして楽しかったことや辛かったこと,通学に2時間ほどかかったな,ということはよく覚えております。
海星高校を卒業してから,1年生の時に同じクラスだった友人7名と毎年,正月の休みに集まっておりました。最初はなんとなく集まり始めましたが,この集まりは現在まで1度も欠かすことなく16年ほど続いております。

20歳前後の頃は高校の同級生が集まっても当然なのですが,男ばかりですので寂しいことだと感じており,男子校の卒業生であることを悔やんだこともありました。
これまで,友人達とはいつも馬鹿なことや無茶なことばかりして遊んでおりました。また,お互いにきついことを言い合うこともあり,けんかしたりすることもありました。しかし,これは心を許せる仲である証拠だと思っております。男子校だからこそ,このような友人ができたのかもしれません。
最近になってやっと男子校で良かったなと思えるようになってきました…。
現在は,いなべ市にあるパソコン教室(イオン大安店内にございます)の責任者として働かせていただいております。
リレーコラムを紹介いただき,高校時代を思い返す良いきっかけとなりました。本当にありがとうございました。


第19走者

亀井辰彦(43回生)

 現在,鈴鹿市に住んでいる亀井と申します。
海星高校時代の思い出はたくさんあるはずですが,卒業して15年以上経つと,だんだん記憶が薄れてきて,自分が海星出身というのを忘れかけてしまうこともあります。しかし,自分が海星出身だなあと思える時がたまにあります。
それは,海星出身者に偶然会ったときです。職場で会ったり,スポーツジムで会ったり,飲み会で会ったり…。意外と海星出身者っていろんなところにいるものです。しかも高校時代には考えていないような経歴を持つ人が多いことです。例えば,浪人してすごくいい大学に入って今は魚屋さんとか…,全く関係のないコンビナート職員とか…。ただ,1つみんなに共通して言えるのは,我慢強くひたむきに頑張っている人が多いことです。
そして,もう1つ言えるのはみんなマジメだということです。それはやはりあの時,3年間行ったスクワットがあるからだと思います。これからもつらいことがあったら,あの時のつらさを思い出し,今の方がマシと思ってみんなには頑張って欲しいものです。そして僕も頑張ります。
REMEMBER スクワット!!


第18走者

田中英則(43回生)

  小林泰輔くんからバトンを受けました田中英則と申します。同じ43回生です。
闇黒の高校時代を送った私ですが…
ここ最近,海星の同級生に出会うことが多く,学生時代のことを思い出し,綴ってみたいと思います。
まず,I・Tくん! 彼は見た目がおとなしいんですが,ギター,ベース,ドラムを演奏できるロックンローラーです。彼の影響もあり,高校卒業後,私もドラムを始めました。彼は最近いつも突然に連絡をくれ,また,自宅にも突然に訪問してくれ,いつもびっくりさせてくれています。彼のおかげでつい先日プチ同窓会を行いました。
次にT・Kくん! 彼はプロ野球マニアで大の中日ファン! 私は阪神ファンでよく2人で熱いプロ野球トークをしていました。パ・リーグはお互い近鉄(もうない)ファンでよく見に行った記憶があります。
次はY・K君! 彼とは高校時代仲が悪く卒業後は会うこともないだろうと思っていたところ,数年前にバッタリ名古屋の某所で会い,瞬時に意気投合!高校時代のことは微塵も感じさせない今では仲良くさせてもらってます。また,30歳を超え,お互い将来のことを考え,夏休みに図書館で10時間勉強した勉強仲間でもあります。
最後はD・K君! 一度は疎遠になった時期もありましたが…。彼から突然の連絡をもらったことをきっかけに仲良くさせてもらっています。彼は,今では共通の友人である関東在住のI・Tさんを紹介してくれました。
I・Tさんは何事も諦めず,とても強い精神力で難関の国家試験も合格され,D・K君と話をすればI・Tさんの話題もよくでてきます。I・Tさんと話をすると,すっごいエネルギーをもらい,仕事もプライベートも頑張れます。感謝しています。D・Kくんは常に忙しいらしく,毎日奔走しているようです。
最後に,こうして振り返ってみると沢山の出会いに感謝すると同時に,在学中,型破りな生活をしていても自由な校風で学生を導いてくれた海星のおかげで,今卒業しても語らえる仲間がいるのだと思います。


第17走者

小林泰輔(43回生)

 はじめまして,43回生の小林泰輔です。
ご縁があってリレーコラムに参加させていただきます。
「男子校って終わっとるよな」
このセリフで始まった高校生活でしたが,振り返ってみると海星が母校で良かったなと思っております。当然ですが同級生も先輩も後輩も全員男で,修学旅行も男ばかり。体育祭もそう。イヤだイヤだという割には他校の女の子と話すことが恥ずかしくって,なかなか複雑な青春時代を過ごしました。
ところが卒業を迎え,大学生活を送り,社会人になってみると,徐々に男の力に助けられることが増えてきます。しょーもないことを企画するのはいつでも男の友人であったし,朝まで話し込む相手も圧倒的に男が多かった。また,私は大学生活を県外で過ごしておりましたが,地元に帰り社会人としての毎日を過ごしていると,なぜか色んな所で同窓生に出会います。お世話になっているお客さまが海星の先輩であったり,一生懸命女の子のお尻を追い駆け回したライバルが後輩であったりと,色んな出会いがあります。そういった時に必ず生まれる心地良い空気があって,例えば「男子校」なんてネタが更に距離を縮めてくれたりもします。在学当時に感じた違和感が,今では話のネタとして扱われていることに驚きですが,改めて振り返ってみると,海星での毎日には特徴的なネタが数多くあり,今ではそれらが良い思い出となっていることを嬉しく思います。
最後に,今回ナニゲに他校の同窓会を検索してみましたが,海星の同窓会は断トツで充実していますね! このリレーコラムの企画やHPを拝見して嬉しくなりました。役員の皆さんのご尽力に感謝いたします。


第16走者

藤盛桂一(43回生)

 43回生の藤盛桂一です。
佐藤さんからの紹介で,リレーコラムに参加させて頂くこととなりました。投稿が大幅に遅くなり申し訳ございませんでした。
高校時代を振り返り,もう15年以上が経つのだなと改めて時の流れを感じます。
在学中は硬式テニス部の在籍し,3年間テニス中心の生活を過ごしていました。1年生の時に3年生の先輩が「2年生は先輩や。先生は先生や。3年生は神様や。」と言われた事は今でも心に刻まれています(笑)。お陰さまで先輩後輩の上下関係や挨拶などはしっかり身につける事が出来たと思います。
在学中の思い出として忘れられないのがスクワットです(今もあるのでしょうか?)。他校の友人たちが球技で楽しく体育の授業を受けている時に,自分達はひたすら筋力トレーニングをしている悲しさを感じたものです。
しかし,1度だけスクワットのテストを6回で2,000回クリアーして,最後の1日に壇上からスクワットをする光景を見たときの達成感は,海星高校の体育でしか味わえないのかなと思いました。
現在は結婚し,5歳になる可愛い息子にも恵まれ幸せに過ごしております。仕事は8年ほど外で勉強させて頂いてから,海星高校の先輩でもある父の会社で勤めております。厳しいご時世ですが,海星高校で培った経験を活かして乗り越えていきたいと思います。
寒さも増してまいりました,皆さま風邪など召されぬようご自愛くださいませ。


第15走者

佐藤左恭(39回生)

 佐藤左恭です。
このような企画により海星メンバーの近況を知ることができ,とても楽しく読むことができました。企画された上田さんありがとうございます。
特になかなか集まることができない我が前田先生クラスにとっては,とてもありがたいと思います。
卒業をしてからのことや近況について書きたいと思います。
高校生の時は車が好きで,特に「○所印」という所ジョージのTV番組に影響を受け,車をつくりたく大学は機械工学科に進みました。入学してすぐに志を忘れ,遊ぶことしか考えていない大学生活を送りました。それでも卒業をする頃には,漠然と経営者になりたいと思うようになりました。
理工学部だったため,まわりの学生はメーカーに就職してましたが,将来経営者を目指すにはベンチャー企業でいろんな仕事を勉強することが近道だろうと考え,当時勢いがあったベンチャー企業に入社しました。
その会社は刺激的な会社でした。同期はギラギラしているメンバーが多く競争も激しかったです。その頃の自分はとても未熟であったため,目立つために会社に文句ばかり言っていました。それが自己アピールであると勘違いをしていたのです。今考えるとほんと馬鹿だなーと思います。あの時の自分に会って説教をしたくなります。
入社して3か月めに人事に呼ばれ,大阪転勤を告げられました。人事からは「大阪にあなたが必要なんです」と言われましたが,それはあきらかに「出直してこい」ということでした。当時一番厳しい上司がいる部署に飛ばされました。
大阪に飛ばされ,とても寂しい気持ちのときに岩崎敬と岡田晃が遊びに来てくれました。そして会社のノートパソコンを壊してくれたことは,とても楽しい思い出です。大変うれしかった記憶だけが残っております。
その当時はとにかく東京で生活したかったので,大阪に来てから人事に「東京に戻してほしい」とアピールしていたら,なんと1か月後に神奈川に転勤となりました。この異動が決まったときは,大学受験に合格したときぐらいに喜びました。そして,その後人生最大のモテ期がやってきました!
まだまだこの後の話を書きたいのですがあまりにも長くなりそうなのですっ飛ばします。いつか会ったときに話のネタにさせてもらいます。その後,波乱のサラリーマン生活を約10年間送りました。その頃には,経営者になりたいという気持ちを完全に忘れてました。
そんなある日,ひょんなことから地元の鈴鹿市に戻ることになりました。
私は現在地元の鈴鹿市に住み不動産業を営んでおります。高校生の時はとにかく鈴鹿市から出たかったのですが,今は鈴鹿の良さがわかるようになりました。ほんといい町だと思います。
鈴鹿市は日本全国の地方が経済的に苦しむなか,大企業の工場が多く元気な町だと思います。海や山が近く,スポーツ施設が整っているのでテニスコートや野球場を手軽に確保することができます。家族で幸せな生活するためには,とても恵まれている町だと思います。
そんな鈴鹿市の人口は約20万人です。これは全国の市,区では118/786位です。鈴鹿市は全国で比べても人口が多い元気な町なんです。
週末の鈴鹿市民はみなベルシティーに行きます。ベルシティーに行くと子連れの家族,妊娠中の女性をたくさんみます。少子化をまったく感じないのですが,統計的には確実に少子化が進んでいます。5年後ぐらいから人口の減少が進むと想定されており,現在の鈴鹿市の活気がどうなるのかと心配です。私が住む白子の町も高齢化が進み商店街の活気がなくなりつつあります。
そんな白子の町を盛り上げたく,現在,白子の若手有志25名で黒子会という会をつくりました(竹口広泰くんも一緒のメンバーです)。
白子の地域発展を願って,祭りに参加したり,みこしを担いだり,出店を出したり,はたまた白子小学校の子供達と一緒に地産の「しらこ」と「のり」を使った白子ピザを石窯をつかって焼いて食べ,地域発展について一緒に考えたりしています。
子供達に地元に愛着を持ってもらおうと活動しています。
少しでも白子が活気づくことを願っております。
今後も地域発展に貢献できるよう,鈴鹿を盛り上げていきたいと思っております。
がんばれ鈴鹿!


第14走者

岩崎敬(39回生)

 最近このコラムリレーの存在を聞き,懐かしい旧友たちの近況と活躍を知ることができ,とてもうれしく思っています。僕も多少でも誰かの刺激になればと自分の近況をここに記したいと思います。
僕は現在北海道ニセコで暮らしています。最も近所のマクドナルドまで片道100km,車で2時間かかりますが,インターネットのおかげで買い物はワールドワイド,レンタルDVDもネットで注文,フェイスブックで世界の友人と連絡が取り合える,なんとも便利な生活をさせてもらっています。
現在アウトドアアクティビティを提供する会社で社員として働いていますが,一般的な世の中の社会人とは少し違う生活をしていると思います。アドベンチャー会社なので,仕事でもかなり自然の中で活動する必要があるので,夏は仕事の合間に激流の川でカヤックを漕ぎ,冬は出勤前に雪山を登山してスキーで滑りおりたりを日常とする生活をしています。今日はどこが雪崩そうだとか,どの川が増水していて良いコンディションだとか,肋骨が折れたとかじん帯が切れたとか,そんな会話が普通に飛び交う安定とは無縁な「体が資本」の世界です。
昨年は仕事で写真を撮影するために1人で山に入っていたら,目の前に巨大なヒグマが現れ,距離にしてほんの数メートル,この世のモノとは思えない恐ろしい吠え声で吠えられ続けるという類を見ない恐怖の体験までしました。
そんな自然たっぷりな田舎ですが,ニセコは一般的な田舎ともまたちょっと違っていて,冬になるとパウダースノーを求めて世界中からたくさんの外国人がスキーをしに訪れるし,働きにも来ます。日本人3割,外国人7割とまるで海外。数か月間は英語を話さない日はない不思議な空間となります。僕は10年前にアラスカで1年間毎日が生きる勝負の日々を送っていました。そのときは仕事をするためのビザで苦労した経験があるのですが,今は立場がまったく逆。今度は自分がたくさんの外国の若者の履歴書に目を通したり,ビザの心配をしたりしています。そんなことをしていると,彼らが10年前の自分とダブって,ちょっと不思議な気持ちになると同時に,今の自分があることに感謝し,ここが日本でよかったなと思ったりします。
僕は20代の自分には想像できなかったような輝きに満ちた30代を過ごすことができました。それは,自分に正直に,時々「挑戦」をしてきたからだと思います。こんな毎日を過ごしていると,人生はつくづく面白いものだと思います。相変わらず先のわからない生活を送っていますが,それを不安と思うか,それとも自分を試す「挑戦」と捉えるかで同じことをしていても見え方が全く異なります。「挑戦」にはいくつになっても沸々と燃えてくるものがあります。知りたいこと,やってみたいことがありすぎて,実際どこまで実現できることやら。でも目の前の「未知」が振り返れば「道」となる。その気持ちを忘れずに不安を新しい挑戦に変え,目の前に迫りくる想像のできない40代に突入するぞと,改めてフンドシと貧相な財布のヒモを締め直して,新しい挑戦の予感に浸っている今日この頃であります。


第13走者

竹口広泰(39回生)

 皆さま,御無沙汰しております。前走者,佐藤君から「友達がいないから…」と涙声で口説き落とされて,無理やり投稿させられました。竹口です。
海星高校同窓会の公式HPということで,皆様の記述,懐かしく拝見しました。学生時代と変わらない気持ちとは裏腹に,かわいい2人の女児の父親になり,疲れのとれない身体で家業に邁進しております。
卒業して20年,改めて驚きます。学生時代は遠い昔になりました。
私は先に言っておきます。先生に怒られた記憶は一切ありません。
20年程前,私が在学当時は服装もブレザーでは無く,学生服でした。ズボンは「ボンタン」が流行し,皆,先生の目を盗み履いていましたね? 今となっては楽しい思い出ですが,「ボンタン狩り」をするのは先生方でした。生徒が非行に走らないように塩浜駅で仁王立ちして頂いておりました。頭が下がります。走者の方々,思い出しましたか? ちなみに,私は前走者の山西先生と仲良く手をつなぎ,それを横目に襟を正し,通学しておりました。
キャンプ,合宿,修学旅行,様々思い出しますが,友人の保身の為,ココに記述できないことだらけです。
思い返し,記述できること…?…!!! テニス部に入部していたわけでは無いのですが,クラスの分け隔てなく,市立体育館で早朝からナイターまでテニスに興じておりました。管理してくれる先生などがいるわけもなく,炎天下で一日中遊ぶ事で,疲れているはずなのに体が火照ってなかなか就寝できません。でも,毎週末のようにみんなで集まっていました。そんなことで欲求を発散していたのでしょう。
今では時間も体力も無く,実行不可能なことです。その時にしかできなかったことでしょう。書き連ねると現状の報告よりも思い出話がたくさん出てきます。それだけ学生生活が楽しかったからでしょう。現在,在学する皆様も私共以上に良い思い出作りに奔走してください。
次走者ですが,学生時代の成績は常にトップ(外見からは想像できませんが),運動神経も抜群の彼を紹介します。現在,日本中を探してもこんな小っちゃいスーパーサイヤおやじは稀有な存在です。彼も最高の伴侶を見つけ,ま~るくなりましたよ。


第12走者

佐藤嘉泰(39回生)

 39回卒業生の佐藤と申します。山西君より紹介を受けましたので,投稿させていただきます。また投稿が遅くなり申し訳ございません。次走者より「バトンが来ない,死んでしまったのでは?」と,お怒りの生存確認のメールをいただいてしまった次第です。
私は新潟県で生まれ,すぐに引っ越し東京に,その後三重県へと転々と移動し(借金取りに追われていた訳ではございません),国内某製薬会社に入社し,愛媛県に配属となり,5年前に山西君のいる高知に転勤,偶然にも彼のいる大学病院に行かせてもらっています。
大学での彼はというと,バリバリ活躍しており,立場的に中堅医師となり若手医師や,研修医の指導をしています。確か学生に授業もしているのではないでしょうか? 最初は,他の先生がいる時に気を使って「山西先生」と呼んでいましたが,どうも違和感があり最近は,昔のように「山ちゃん」と呼んでおります。
そんな私も,四国での在住期間がすでに14年になり,四国支店の中では,100名以上いる営業マン(私達の業種では一応MRといいます。)の中では最長貯留者となってしまい(引き取ってくれる部署がなかったため??),8月盆明けに,信州大学への転勤配属を言われ,現在はなんか忙しい日々を送っています。
高校卒業後,海星時代の友人は本当に少なくなり,大学時代から時々会っていた親友の山西君のいる高知大学医学部附属病院の担当になった時は,嬉しくも何かの縁があるのでは…と不思議な気がしていました。山西君と会う機会が少なくなると思うと寂しいです。
海星時代の思い出といえば,良い思い出も,悪い思い出も沢山あります。そのうち,投稿しても問題のないものをいくつかを紹介します。
良い思い出では,まず2年連続で甲子園に応援に行ったことでしょうか。たしか1回戦は2回とも勝っていました。長崎海星との同名校対戦の時は,「長崎倒せ」と長崎県民が聞いたら怒るようなことを必死に叫んでいたことを覚えています。頑張れ海星!! でも三重の海星ね!!
また当時は,パソコンゲームが流行っており,またその中でもファミコン派かパソコン派に分かれていました。39回生のこれまでのコラム投稿者の中では,小松君,藤村君,山浦君はファミコン派,若林君はパソコン派,山西君はどっちもしていなかったのでは? と覚えています(←どうでもいいことですけど)。同級生の伊藤君,萩君,後藤君から,よくゲームソフトをコピーしてもらって遊んでいたと思います。禁ソフトは5学年上にいらしゃったY先輩から譲ってもらっていました。そんなわけで,当然帰宅しても全く勉強もせず,ゲームをしたりビデオを見たりしていました。隣のBクラスに同姓の佐藤君がいましたが,「阿呆の佐藤,天才の佐藤」と言われ,私は当然前者でありました。 悪い思い出では,山西君とは全く正反対で,学生時代は不真面目で,今となっては下村先生に申し訳ないと思いますが,良い意味でも悪い意味でも目立っており,頭髪検査でよくひっかかり何回も坊主頭になっていました。当時は,本当に恨んでいたと思います。不思議なもので,社会人になって突然「坊主にしたい」と思い2回坊主頭にしましたが,愛媛時代の取引先の大病院の院長からやめるように怒られ,現在はごくごく普通のリーマンカットです。
あとは,体育の時間の海星スクワット! あれは正直辛かったです。500回を3回連続で達成できれば,次の体育の時間は自由に遊んでよい,というご褒美があり,必死にスクワットしていたことを覚えています。当然翌日は筋肉痛に悩まされていましたが…(笑)。今もしているのでしょうか? ちなみに30歳台後半の今ではできないと,自信を持って思います。
最後に,話が突然飛びますが,病気になったら薬局で薬を購入するよりも,病院へ行ったほうがいいと思います。何故なら薬の成分が全く違うからです。特にシップ薬や胃薬などは絶対病院で薬を処方してもらう方が安いです。BY一応薬剤師の資格だけもっている営業マンより,卒業生の皆様のご健康をお祈りして。
次走者のT君! 遅くなって申し訳ないです。バトン渡します。


第11走者

山西伴明(39回生)

 「龍馬伝」でまっこと盛り上がっている南国土佐の高知にきて,すでに18年になろうとしています。39回卒業生の山西と申します。皆様お元気ですか。藤村君より紹介を受けましたので喜んでコラムに投稿させていただきます。
自分は鈴鹿で生まれましたが,すぐに引っ越し,小学生の頃に戻るまで千葉の柏に暮らしていましたので,すでに18年暮らしている高知での生活のほうが長くなっています。故郷に戻るのはF1観戦のときくらいでしょうか。
こちらで結婚し,子供も3人授かり,プロ野球などのキャンプで有名な春野にマイホームも建てて,すっかり気分は土佐人です(笑)。でも土佐弁はいまだに上手く使いこなせません(下手にマネすると「違う」と嫁さんからも駄目出しされます)。
大学卒業からそのまま大学病院勤務になってもう10年あまり。本当に時間の経つのが速いなと感じますが,海星時代のことは本当によく思い出します。なぜなら,同級生の佐藤君と仕事でしょっちゅう会い,海星話で盛り上がったりすることもしばしばだからです。三重から遠く離れた高知で同級生と一緒にいると不思議な感じですが,彼とは海釣りにいったり今でも本当に仲良くさせてもらっています(相変わらずのキャラで,みんなにイジられています)。
学生時代の自分は本当に真面目で,先生に怒られた記憶もほとんどありませんが,時には色々ハメを外したりしたのも今では本当にいい思い出です(笑)。担当だった下村先生にいつも親身になってご指導いただいたことには今でも大変感謝しております。どうみても文系頭だった自分に,特別入試を実施していた高知医大を薦めてくれた先生のおかげで今の自分があると思います。一度TVの記者会見で先生をお見かけしたときは,随分ご苦労されていると思ったとは自分だけでしょうか。また同窓会などで先生にお礼できればと思っております。幹事の広田君,また宜しくね!
あと海星は英語教育に力を入れていたのもよく覚えています。洋楽が好きなこともあり,英語は好きな方でしたが,国際学会に行くときなどは学生時代にもっと勉強しておくべきだったと悔やんでしまいます。
甲子園に何度も応援に行ったのもいい思い出です。父親の影響で小さい頃から野球ファンで,今でも巨人ファンですが,夢の舞台で何度も応援できたのは本当に幸せでした。夏の甲子園では確かベスト8までいったと思いますが,熱気あふれるアルプススタンドで皆で何度も飛び上がりながら歓声を上げていたのが懐かしいです。こちらに来ても「三重海星」といえば「爽やかなチーム」として知られているので,本当に素晴らしいと思います。このコラムを書きながら今年の高校野球三重大会の結果をみて非常に残念でした。去年も決勝で敗れた対戦相手の三重高校は,自分の妹の旦那の出身校(おまけに野球部)ですので負けるのが結構辛いです(笑)。今度出るときは家族で甲子園に応援に行くぞと思ってもう何年になるでしょうか。今後の一層の活躍に期待ですね。頑張れ,三重海星! そして三重海星の卒業生の一員として自分も負けずに頑張るぜよ! 追伸:藤村君へ,紹介ありがとう。今度また新居見に行きますね。その時はかわいい赤ちゃんにも会えることを楽しみにしております。


第10走者

藤村尚城(39回生)

 海星高校卒業生の藤村と申します。よろしくお願いします。
たくさん思い出があるのですが,今でも鮮明に覚えていることは,溝(海星高校の真ん前の)に落ちたことです。
当時,塩浜駅から学校まで自転車で通っていたのですが,その日は雪が積もっていて,タイヤが滑って自転車ごとドブに落ちてしまいました。
学生服がべっちゃんこに濡れてしまい,着替えの服がなかったのでレインコートに着替えた覚えがあります。寒かったですね!
その後,親が制服を持ってきてくれたのですが,その間に担任の先生が泥だらけの学生服を洗ってくださったことがとても印象に残っています。
おそらく,あれ以来今もまだドブに落ちた学生はいないのではないでしょうか。
他の学校では無いと思いますが,毎年体育館でクリスマス会があったことを覚えています。そのクリスマス会がとても楽しみでした。当時の校長先生(エウヘニオ・モンレアル先生)がギターを弾きながら何かを歌っていました。
今でもクリスマスの日が近づくと,必ずその時の楽しかった気持ちが湧き上がってきます。今もクリスマス会が続いているといいですね。
体育の授業もよく覚えています。当時「ライオン丸」と呼ばれていた体育の豪快な先生がおられました。たまに吠えることがあったのでとても怖かったです。本当は優しい先生だったのかもしれませんが,当時の僕には「恐怖」でした。今もお元気でいらっしゃったらいいのですが。
とにかく,スクワットとうさぎ跳びはもうしたくないですね。伝統のスクワットはおそらく今でもあるのでは?ないでしょうか。
在学中の皆さん、スクワット頑張ってくださいね。応援してます!!


第9走者

若林和也(39回生)

  皆さんこんにちは。39回生の若林と申します。現在は神奈川在住,情報システム系の勤務で予算削減の中,日々パケットやlog,LDAP達と奮闘しております。
山浦君からの紹介でリレーコラムのご縁をいただきました。暫しの間,お付き合いのほど,宜しくお願いいたします。
山浦君,小松君とは同級生の縁で,小生も弱いながらも,たま~に飲んだりしています。海星高校,誠に懐かしい限りです。。

 地元を離れ,日々生活の中,県外から三重に触れる機会があると,懐かしむ気持ちと共に,当時自分がいかにのんびりと過ごしていたかをしみじみと振り返ったりします。

 関東近県では三重の特に地理的位置も含めた認知度の低さに比べ,海星高校が特に野球部の方々のご活躍のお陰か,全国的に知られていることに改めて感謝する機会があります。
当時を振り返ると,皆様と同じように,行進の練習で「1が左ーっ!」と背中に愛情のビンタを頂いたり(笑),スクワットで筋肉痛を味わったり(そのわりに筋肉はつきませんでしたが),日々ソフトボールに励んでは「うえきやさん」に溜まって「タッチ」を読んでいたことを思い出します(笑)。
あるとき体育館のガラスを割ってしまい,5万円支払ったのは苦い思い出の一つです(苦笑)。

 更に記憶を遡り,中学のキャンプ・ファイアで某神父の物真似をして,その後の授業でいつもより多めに当てられた(イジられた) 記憶があります(笑)。色んな意味で個性溢れる学校生活だったと思います(笑)。

 まだまだ思い出はあ尽きませんが,在校生の方々は日々どのように過ごされているのでしょうか。
少子化の問題が顕在化しつつある昨今ですが,海星中・高校の末永い発展と皆様のご健勝をお祈り致します。


第8走者

山浦直晃 (39回生)

 皆さんこんにちは。39回生の山浦です。小松さんからの紹介でリレーコラムに参加させていただきます。
紹介していただいた小松さんとは,新宿界隈でよく一緒に飲んでおり,海星時代の話題になることも多々あります。
リレーコラム寄稿のお誘いをいただいたのをきっかけに,同窓会サイトの他のコンテンツも拝見しました。卒業してはや20年以上が経過している事実に感慨と懐かしさを覚えつつ読ませていただきました。
私は大学進学から上京し,現在は都内でIT関係の仕事をしています。小松さんの他,東京近辺に在住する一部の卒業生とは定期的に連絡を取らせていただいているのですが,それ以外の同じクラスの卒業生の皆さんが今何をされているのかがとても気になります。
さて,海星時代の話題になりますが,私の場合,海星時代を振り返って真っ先に思い出すのは「体育の授業(春~夏バージョン)」です。授業のメニューは皆さんご存じの通り「ダッシュ」「腕立て」「腹筋」「背筋」,そして締めは「スクワット(200回以上)」で終わるというとても濃い内容でした。
この季節は,カニのように横向きになって,手すりにしっかりつかまって(氷上のスケート初心者みたいに)階段を昇り降りしていたことも今では懐かしい思い出です。
確か週2~3回ほど体育の授業が組み込まれていたと記憶しております。体育の授業の間隔が開いているほど「体力(=筋肉痛)の回復が図れる」ため,「時間割り」がとても重要でした(火・水の2連チャンといった痛恨のケースもありました)。
当時はものすごい回数の腹筋をこなしておりましたが,このあいだ試しにやってみたところ,10回でギブアップしてしまい,少しショックでした。日頃の鍛錬の重要さを思い知りました。
最後になりますが,東京在住の海星OBの方,機会があれば是非語り合いたいですね。是非お声を掛けてください。

第7走者

小松和弘 (39回生)

39回生の小松です。
野崎君から突然の連絡があり、参加しました。
当初は「海星OB」のどなたかが個人的に運営しているSNSの中への寄稿かと思い、気軽に「イイヨー」と返事をしたところ、実は公式サイト内での企画と知り、少し驚きました(苦笑)
現在、私は東京でIT全般の仕事をしているので、東京周辺に生息している海星OBと供に新宿の夜に繰り出す機会が多く、その際、在校時の「想い出」もよく話題に上ります。あっという間に終わってしまった巨大迷路。確かオープン当時は、全国的に流行っていて、物珍しさにみんなで散策に行きました。結局、壁の下をくぐるズルでゴールしてしまったなぁ。とか。
毎週、自転車が忽然と消える駅前駐輪場。サドルだけが消えていたり、逆にチェーンを付けておいた前輪だけが残っていたり(これは、残念度が高かったですね。自転車が全体的に無くなるなら、まだ諦めもつきますけど。)とか。
校内的には、菓子パンの自動販売機。欲しいパンが入った棚の扉を開く形式のもの、まだあるのでしょうか?何も入っていない棚を友達に横から開けられてしまった時のショック。とか。
当時6年間お世話になった先生がいつの間にか、とても偉い先生になられたようだ、、、などなど。そんなこんなと当時を懐かしみ、新宿の夜を楽しんでいますので、聞いたことがあるような話が聞こえてきた際は、是非お声掛けください。一緒に語りましょう!

第6走者

野崎祐介 (40回生)

 皆様,お元気でしょうか? 40回生の野崎です。
中澤君より紹介を受け,リレーコラムに参加させていただきます。
中澤君とは「偶然なる再会」もあってか,定期的に「仕事帰りの一杯」を継続してますが,毎回「男クサイひと頃」をネタにしてます。
海運関係の仕事に就いていることもあり,周囲には男子校経験者も少なくありません。その中ではまだまだ「男クサイ度」は低く,もっと謳歌していれば…と思うこともあります。家族を持ち,子どもが男子校へ進学する機会もあるかもしれませんが,その時には,経験者としてもぜひ選択肢として薦めたいと思います。
それも,海星での生活が良かったと思うからなのでしょう…。
小生の思い出としては,やはり「道徳の授業」ですかね。カトリック校に通った印象を聞かれると毎回そう答えてます。聖書に沿った内容でしたよね?? いい経験でした。
帰郷しても,なかなか学校を訪問する機会はありませんが,学食は今もあるのでしょうね。学食のシステムは中・高校としてはすばらしいシステムだと思います。また食べてみたいなー。子どもたちと。

小生の思い出としては,やはり「道徳の授業」ですかね。
カトリック校に通った印象を聞かれると毎回そう答えてます。
聖書に沿った内容でしたよね?? いい経験でした。

 帰郷しても,なかなか学校を訪問する機会はありませんが,学食は今もあるのでしょうね。学食のシステムは中・高校としてはすばらしいシステムだと思います。また食べてみたいなー。子どもたちと。

第5走者

中澤義晴 (40回生)

 ご無沙汰しております。皆様お元気でいらっしゃいますか? 平成4年卒業で,瀬古君や円谷君と同じクラスだった中澤です。沢村先生はじめ,先生方皆様ご無沙汰しておりまして申し訳ございません。何とか元気でやっております。
現在,東京で仕事をしていますが,海星で隣のクラスだった同級生N氏と職場が近いため,新橋あたりでよく一緒に呑んでいます。高校生の時には,同級生と新橋で呑むなんて想像もしませんでしたが,まいど,海星話に花を咲かせています。
海星で過ごした6年間は,思い出だけにとどまらず,貴重な経験として,大きな影響を受けています。例えば,今の仕事では海外に住んだり,出張したりすることもありますが,海外ではキリスト教を少しでも知っていることはとても大事だし,直接的ではないにしても,役立つ場面が多いのを実感します。僕自身はクリスチャンではありませんが,海星6年間で自然と身についた知識,学校の教育方針や雰囲気は,海外のキリスト教文化圏の文化や習慣,ビジネスにおける考え方などを理解する助けになっています。高校1年生の時に行った,米国オレゴン州・セーラムでのホームステイは,初めての海外との関わりで,オレゴンでの約3週間は今でも鮮明に覚えています。
また,全国どこの方と会っても,“三重・海星”という名を,高校野球を通じてほとんどの方が知っているのはとてもありがたいことです。初めての方でも話題がつながり,覚えていただくことができます。
さて,今週末もN氏とほか数人の仲間で新年会をやります。東京にいらっしゃる海星OBの皆様,新橋や新宿で気軽なOB会でもやりませんか? 是非,お声掛けください。

第4走者
円谷大介 (40回生)

  皆さんこんにちは。40期生の円谷です。どういうわけか、私のところに瀬古さんから執筆依頼がとどきリレーコラムを書くことになりました。学生以来人に見てもらうような文章は書いていないので、拙い文章になってしまうかもしれませんが御容赦下さい。
私は、母親が事務員として働いていたこともあり、“円谷”の名前は母親からご存知の方が多いのではないでしょうか。また、弟も従弟も海星にお世話になり、まさに“海星一家”で私よりも母の存在でちょっとした有名人でした。エピソードを幾つか思い出すと、
エピソードその1 私が先生に叱られて、罰に職員室の黒板の下でいつものように?正座させられていると、運悪く母親が通りすがり、その時は何事も無かったように去って行ったのですが、うちに帰ると父親も参加して大目玉を食らったことも数十回?? エピソードその2 どなたか運動会の行進の練習で叱られたと書いておられましたが、そういえば40期の特教生は、体操の隊形に広がる時はいつも“仮面ライダーのショッカー”のように奇声を発して広がっていたのを思い出します。もちろんあの体育の恐ろしい?先生にみなが叱られたのは言うまでもありません。
まだまだ思い出されますが、よく考えると何か恥ずかしい??思い出ばかりでこれぐらいにしておきます。
母親を亡くして、海星が話題に上がっても詳しい事も分からず、お世話になった先生方もお元気なのかどうかわからず寂しい限りでありますが、また何かのきっかけで海星にお邪魔して色々話を聞ければと思っております。そうそう、食堂のうどんとあんドーナツが無性に食べたくなる事がよくあるんです。こそっと食べれへんかな??

第3走者
瀬古貴之 (40回生)

 同じ会社の別保さんから依頼を頂き,このコラムを執筆する機会を頂いた平成4年卒業の瀬古と申します。
私は中学から6年間お世話になりましたが,振り返ると海星って他に無い学校だなあと改めて思います。
カトリック系男子校で中高6年間を通してクラスが変わらず,同じ担任の先生と仲間と6年間共に過ごすという濃い学生生活でした。
高校野球の応援・聖ヨゼフカラサンスの歌・使いにくい一体型の机と椅子・食堂・頭髪検査・男だらけのクリスマス会・ドメニオ先生の緑バット・スクワット・楽勝の湖…。
今となってはどれも楽しい思い出ばかりです。
ちょっと他には無い環境だと思いますが,そういう環境だからこそ得られた物が沢山あったと思います。
これからも海星らしく海星にしか出来ない教育の場であって欲しいです。

 そういえば別保さん。海星のHPを初めて見たら食堂のメニュー載ってましたよ!
在学当時と変わらないメニューと料金で嬉しくなりました。今度一緒に食べに行きましょうか。

 最後になりましたが当時6年間もの間、担任頂いた沢村先生を初めご指導頂いた諸先生方に改めて感謝すると共に,母校海星中学校・高等学校の益々の発展を祈願しております。

第2走者
別保芳紀 (41回生)
  リレーコラムの御紹介をいただきました平成5年卒業41回生の別保です。執筆にあたり当時のことを色々振り返りますと、「卒業からこんなにも時間が経っているのだ」と改めて感じました。中学・高校の6年間は毎日が楽しかったと今でも思います。
中学時代は電車で通学していましたが、内部線は今でも健在でしょうか?また、学校の手前にあった「うえきやさん」は今どうなっているでしょうか?「ライフガードとチリイカ」のセットを毎日のように買っていたことが思い出されます。
高校からは自転車通学にしていました。鈴鹿からの自転車通学、今思えばよくそんなことができたものだと思います。約1時間の通学時間でも、風が強い日などは田んぼの真ん中を走る際に、一向に前に進まず苦労していました。
また、当時を振り返るとなぜか食堂のことを思い出します。(先生方、すみません)メニューにあったハンバーグ?、カレーやうどん等、今でももう一度食べてみたいと思えるほどです。
何かのイベントがないと、当時の友人たちとも会う機会がなかなか無いようになってしまいましたが、集まった時には今でも当時のままの感覚がよみがえってきます。なんでもないようなことですが、今も変わらないことに不思議な感覚を覚えたりもします。
最後になりましたが、お世話になった先生皆様方には感謝の気持ちでいっぱいです。当時は色々とご迷惑をお掛けしました。勝手ですが、ご容赦下さいませ。ありがとう御座いました。
第1走者
上田周平 (41回生)
リレーコラムがスタートしました。瀬川広報委員長と私がいわば「第1走者」。第1走者という大役にはややプレッシャーを感じますが,このリレーは第2走者以降の皆さんが素晴らしいランナーであることに間違いはないので,後の皆さんの走りっぷりを楽しみにして「バトン」を渡したいと思います。私の手を離れたバトンがこれからどれだけ多くの卒業生の皆さんの手に渡り,どれだけ多くの「ちょっといい話」を引き出してくれるのか,楽しみでなりません。
在学中の思い出を1つ。当時は要領が良かったのでしょうか,私は在学中さほど厳しく叱られることがありませんでした。しかし一度だけ,ある先生にこっぴどく叱られたことがあり,当然のことながらその時のことは今でもはっきりと覚えています。体育の授業で行進の練習をしていた時のこと。行進の練習では,当然のことながら私語は一切禁止だったわけですが,私の隣を歩いていた友人が私に突然話しかけてきたのです。内容なんてまったく覚えていません。私は彼に「話しかけるな」と答えました。おしゃべりが見つかったら大変な目に遭うであろうことは目に見えていたからです。ところが,あろうことか運悪く,その「話しかけるな」の瞬間を先生に見つかってしまったのです。僕はただ一人,行進の列からつまみ出され,一人で行進をさせられ,みんなの笑い者にされました。正座でお説教をいただく折には,事情を説明しようとして逆に「言い訳するな」の一喝。悔しくて号泣したものです。今となっては笑い話です。
卒業後,その先生とその時のことを話す機会がありました。当然のことながら先生は忘れておいでで「そりゃひどい」と苦笑しておられました。